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3月16日~二人の頑張り屋さん
三月十一日は、東日本大震災による物故者の三回忌でした。犠牲となられた方々を偲びつつお寺でご法要をお勤めしました。
さて、三月と言えば別れの季節です。私の先輩の幼稚園の園長先生に伺った、ある卒園式の出来事です。
厳粛な式が終わり、卒園児たちは教室に帰って、最後のお別れの集いが開かれました。
卒園児は五歳児です。その中で三歳児から三年間を過ごした体に障害を持った男の子のAちゃんがいました。Aちゃんは運動会やおゆうぎ会など、クラスの友だちと一緒に練習に励み共に過ごしました。
体にハンディを抱えていますから、健常児と一緒に競技や練習するのには大変な努力が必要です。でも、頑張り屋のAちゃんは、一生懸命努力をして卒園まで頑張りぬきました。
そして、その姿を見てきた担任の先生は、Aちゃんの三年間の努力と頑張りを皆の前であらためて紹介し誉めたそうです。
すると、クラスの数人の子どもたちが、「先生、Aちゃんもとても頑張ったけど、もっと頑張ったお友達がいるよ」と言いました。
それは、昨年五歳になった春に、初めて幼稚園に通うようになったBちゃんでした。
幼稚園に三歳から通うのと、五歳になって初めて通うのとでは、その習得や成長面で自ずと違いが出ます。
Bちゃんは、何をやるにも初めてですべて遅れてしまいます。しかし、歯を食いしばって一生懸命頑張って皆についていきました。周りの園児たちはその姿をしっかりと見ていて、Bちゃんの努力を褒め称えたのです。
体にハンディを抱えたAちゃん、五歳から通うようになったBちゃん、どちらも頑張り屋さん。子どもたちには、体にハンディがあるなしにかかわらず、分け隔てなく、平等にその人の努力を見つめるまなざしがあることを知らされる出来事です。
3月16日~二人の頑張り屋さん | 2013年03月23日【188】
3月1日~タンポポのように力強く
三月は別れの季節。各学校では卒業式の準備が始まります。
さて、日の光や雲の様子には春らしさを感じるこの頃ですが、時代とともに道路は整備されて、幼い頃、春先に目にしていたタンポポをすっかり見なくなりました。
仏教詩人の坂村真民さんは、このような詩を詠んでおられます。
タンポポのように強く生きよう
踏みにじられても
食いちぎられても
死にもしない
枯れもしない
その根強さ
そして つねに
太陽に向かって咲く
その明るさ
わたしはそれを
わたしの魂とする
私たちの人生は、いつどこでどのような苦難に遭うか、予想もしない不幸が待ち受けているか分かりません。
坂村さんは、そのような人生の厳しい岐路に立たされたとき、逃げるのでもなく、諦めるのでもなく、避けるのでもなく、すっくと前を向いて立ち上がる姿を、タンポポの花に見ておられます。
わたしが大切だと思うのは、その力強いタンポポが常日頃、根を張っている大地があるということです。
タンポポが踏みにじられようとも、食いちぎられようとも、その根を力強く包み支える大地があるということです。
親鸞聖人は、その根っこを人間のいのちに喩え、その私たちのいのちを包み支える大地が仏さまの願いであり、お念仏のみ教えといただかれました。
いかなる苦難があろうとも、それを乗り越えていく道がある。タンポポのようにその大地にしっかりと根を張って、仏さまの願いとその教えを拠り所に力強く生きる。それが浄土真宗の仏道です。
3月1日~タンポポのように力強く | 2013年02月23日【187】
2月16日~鬼は外、福は内という生き方は…。
今年もインフルエンザが流行しています。手洗い、うがいを心がけたいものです。
さて、今月三日は節分でした。「鬼は外、福は内」と大きな声を出しながら福豆を撒いて、厄除けを行う光景がテレビで放送されていました。
これは、季節の変わり目には邪気が生じると考えられており、それを追い払うために、昔、宮中でされていたものが一般化して残ったものです。
一見すると、楽しくほほえましい風景で、また伝統行事ですから大切にすべきかもしれませんが、お念仏のみ教えを聴聞されるご門徒の多くは、昔からその行事を行おうとされませんでした。
それは、「鬼は外、福は内」という生き方に問題意識を持っておられたからだと思います。ここでいう鬼とは、自分にとって都合の悪いもの、逆に福は都合のいいものを指しています。
先輩念仏者の方々は、自分にとって都合の悪いものは外に、都合のよいものは内にという自己中心的な人間の有り様を、常々、自らの生き方の中に問うておられたからだと思います。つまり、本当に怖い鬼は外にいるのではなく、自分自身の心の中に住んでいるということです。
私たちは、自分にとって都合のいい事柄や得をすること、自分の思いに賛同してくれる人はすぐに取り込もうとします。逆にそうでない事柄や損をすること、自分の意見に反対する人は避けようとします。
自分さえよければいいという思いは、裏を返せば他人はどうなってもいいという姿勢に他なりません。まさに鬼の姿です。
仏様のお心は、自他共に分け隔てなく、平等に救ってくださる世界です。その智慧の光に照らされたとき、私たちは初めて自らの恥ずかしい有り様に気づかされます。そして、その真実の教えに導かれたときに、まことの生き方が開かれてきます。
それは、仏法聴聞を重ねるところに開かれる世界です。
2月16日~鬼は外、福は内という生き方は…。 | 2013年02月16日【186】