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10月1日~がん再発知らされた日から…
お彼岸を機に朝夕、急に涼しくなってきました。
さて、九月末に、年に一回の人間ドックに行きました。
待合室で検診を待っていると、「よお、久しぶり」と男性から声をかけられました。それは、卒業以来会うことがなかった高校の同級生でした。年を重ねていくと、同窓会など定められた日以外で、会う機会があるのは病院なのか…ということを思わされ、互いに苦笑することでした。
血液検査から始まり、レントゲン、胃の透視検査、CTや超音波検査など、手際よく検査は進められます。そして最後に医師の検査結果を伺う時間がやってきます。
今年はどうだろうか。がんなどの大きな病気になっていないだろうか。そのような不安が頭の中をよぎり、以前読んだ島根県の成福寺ご住職・故本多昭人先生の著書『ふたたび出会う世界があるから』(本願寺出版社)にある言葉を思い出しました。
本多先生は、担当の医師からがんの転移があり、手術は不可能で、抗がん剤治療を告げられたとき、「私はただ呆然とするばかりでした」とその時の心境をおっしゃっています。
そして、「仏教では、『生死一如』すなわち、『死は生とともに、今ここにある』と説きます。世の中は無常であり、皆が死と背中合わせの今を生きています。なのに、『死ぬのはまだまだ先のこと』と、漫然と構えている自分にそのとき、気づいたのでした」と述べられ、「がんの再発を知らされたその日から、ひと息ひと息のいのちと向き合う日々が始まりました。それはそのまま、いのちの極みにある私を今すぐお救いくださる、阿弥陀さまの尊いはたらきに気づかせていただく日々でもあります」とおっしゃっています。
検査の結果は大丈夫とのことでしたが、本多先生の御身をかけたご法話を、あらためてお聴聞させて頂きました。ひと息、ひと息の毎日を、お念仏とともに大切に過ごさせていただきます。
10月1日~がん再発知らされた日から… | 2025年10月01日【483】
9月16日~そのままでいいではないか
秋の涼風が待ち遠しいこの頃です。
さて、日本昔話の「ウサギとカメ」は有名な童謡です。競争で油断をして昼寝をしたウサギにコツコツと休むことなく走ったカメが勝利するお話です。
学校での試験勉強や部活動において、また仕事において通ずることがあったように思います。自分よりも成績優秀な人はたくさんいますし、スポーツで輝かしい結果を残す人もいます。そのような人と自分とを比較する気持ちは誰しも生じるものです。
理想の自分に近づくために、コツコツと最後まであきらめず、油断することなくやり遂げることの大切さを、「ウサギとカメ」のお話から学びました。
しかし、仏様の教えを聞きはじめて改めてこのお話を読んだときに、新たな視点に気が付きました。それは、ありのままの大切さです。
かけっこに勝利したカメは、決してウサギよりも足が速くなったわけではありません。ウサギになれるように特訓したわけでもありません。カメ自身は何も変わってはいません。カメはカメのままに一生懸命走り続けただけです。
仏教では、仏様がいらっしゃるお浄土はすべての命が比べられることなくそのままに光り輝く世界として説かれています。その一方で、私たちが暮らす娑婆世界は、比較の世界とされています。
自分と他人を比較して劣等感を抱いたり、逆に、少しでも他人より自分に秀でたところがあれば、心の中に驕り高ぶりまで生まれます。それが娑婆世界で生きる私たちの姿です。
だからこそ、比べたり比べられることのない、一つ一つの命が喜び輝く世界をお示し下さった教えが仏教です。
成績優秀である必要はない。運動ができなくてもいい。ありのままの自分でいることが何よりも尊い生き方であることを、繰り返し仏法聴聞を重ねていく中で、気付かされた新たな物事の見方でありました。
これからも仏様のみ教えをお聞かせいただく日々を大切に歩ませていただきます。
9月16日~そのままでいいではないか | 2025年09月16日【482】
9月1日~あなたのいのちの年輪は…
虫すだく季節ですが、暑いからでしょうか、本格的な虫の合唱がまだ聞こえません。
さて、先日テレビで屋久杉の番組を見ました。
屋久杉は、屋久島の山地に自生するスギで、そのうち樹齢一千年以上のものを屋久杉というそうですが、その中でも有名なのが一九六六年に発見された縄文杉です。
多くの登山者や観光客にその神々しい姿で、自然の偉大さや圧倒的な存在感、生命の尊さや感動を与えていますが、多くの屋久杉が伐採された中で、なぜ縄文杉だけが残ったのか。
それは当時この大杉が、どの角度から見てもまったく商品価値のない、使いようのない大木だったからだそうです。
使い物にならない、まったく価値のなかった大木が、今に至って多くの人々に感動を与え、屋久島の観光を担っているとは興味深いお話です。
テレビに映る屋久杉の美しい木目や年輪を見ながら、ふと、自分自身のいのちの年輪というものを考えました。
屋久杉は、厳しい自然環境の中で長い年月をかけて、小さな年輪を幾重にも重ねていきますが、それを人生にたとえると、その人の言動や行動、日々の歩み、生活のあり方でありましょう。
能力もなく、何をやっても完全にできない私ですが、この人生の歩みの中で、家族をはじめ縁ある方々に、何か大切なことを伝えられるような年輪を残す生活ができているかどうか。
あの屋久杉の年輪のように、できることならば日々の生活を通して、あとに残る方々が少しでも心が豊かになるような、少しでも生活の指針となるような、少しでも心の支えとなるようなものが残すことができたならば、幸せなことだと思うのです。
あなたのいのちの年輪はいかがでしょう。少し立ち止まって顧みることも大切なことかもしれません。
9月1日~あなたのいのちの年輪は… | 2025年08月31日【481】