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11月16日~蓋のとれた姿に…

 十一月も半ば、初霜の便りが届く頃です。

 さて、とんちで有名な禅宗のお坊さん・一休さんと、浄土真宗八代目のご門主・蓮如上人は室町時代、同じ時期に生きた方で、仏さまの教えを通して交流もあったと伝えられます。

 「阿弥陀には まことの慈悲はなかりけり たのむ衆生をのみぞ助ける」

 ある日、一休さんが蓮如さんに、詩を通して問いました。

 これは、蓮如さんがお書きになった有名な『御文章』の中で、阿弥陀さまのお救いは条件がなく、わけへだてのない平等のお救いであり、「阿弥陀さまにたすけたまへとたのむ」ことが大切と説かれて、蓮如さんが阿弥陀さまのご本願をよりどころとすることを勧められています。

 一休さんはそこをとらえて、阿弥陀さまは、本当にわけへだてのない平等のお救いを持った仏さまなんですか。だって、阿弥陀さまのご本願をよりどころとする人しか救ってくださらないのではないですかと、得意のとんちをきかせて聞いた詩です。

 それに対して、蓮如さんが詩で応えています。

 「阿弥陀には へだつる心なけれども 蓋ある水に月は宿らじ」

 最近、本格的な冬到来にともなって、空気が澄んでお月さまが美しい夜が続きますが、水をためた大きな壺があると、そのまま水面に美しい月が映りますが、もしその壺に蓋がしてあれば、月が映ることは絶対ありません。

 それと同じように、阿弥陀さまは、誰彼わけへだてをすることなく、常にすべての者を救おうと、慈悲の光で平等に照らしてくださっていますが、阿弥陀さまのお目当てである私たちが、その光に気づこうとせず、教えを聞こうともせず、自らに蓋をしてしまっていては、届くべきものも届きません。

 常々、お寺にお参りくださる方々は、きっとこ蓋がとれたお姿なのでしょう。そして今、このテレホン法話を聞いてくださっているあなたさまも…。

11月16日~蓋のとれた姿に…2022年11月17日【416】

11月1日~宗教は知らされる世界

 秋も終わりに近づくにつれ虫たちの鳴き声も次第に小さくなっていきます。

 さて先月、ご門徒のWさんご夫婦が突然訪ねてこられました。

 イギリスに住んでおられるお孫さんが、この度中学校に進学されるにあたり、学校に信仰している宗教は何かを、届けなければならないとのことです。

 Wさんは、「住職さん、私の家はずっと仏教ですから、孫の書類にはぜひ仏教徒と書いて書類を送ってください」とのご依頼でした。

 現地の詳しいことは知りませんが、イギリスの公式宗教はキリスト教で、その他にも仏教やイスラーム、ヒンズー教なども認める他信仰国家ということですが、中学進学にあたって自分の宗教を、しかもお寺から直接届けなければならないという厳格さに感心することでした。

 昨今、「私は無宗教です」という言葉を聞くことがありますが、それは、法律や道徳の基準からはみ出さずに生きればよい、という考え方でありましょう。

 しかし、日常を省みると果たしていかがでしょうか。

 法律を破って警察に捕まれば、あの人は悪い人と言われるでしょうが、捕まらなければ善い人かというと、そうでもありません。

 テレビで、犯罪を犯した人について、周囲の人たちが、「あの人に限ってそんなことをする人じゃない」「いつも地域や他人のために一生懸命な人で、何かの間違いですよ」と話すのは、きっとその犯人は普段は善い人だったのでしょう。

 人間という存在は、善いことと知りながらも善いことができず、悪いことと知りながらも、縁次第では犯さずにはおれない存在です。

 宗教は、人間の行為よりも、人間の存在そのものを深く見つめていく生き方を知らしてくれるものです。

 そのことを、ノーベル物理学賞を受賞された湯川秀樹先生は、「科学は知る世界であり、宗教は知らされる世界である」とおっしゃいました。

 宗教は、一度きりのかけがえのない人生を、真実に生きるためのよりどころであります。

11月1日~宗教は知らされる世界2022年10月29日【415】

10月16日~私の罪をとがめることなく

 幼稚園・子ども園の運動会の準備に追われていましたら、つい、このテレホン法話を忘れていました。申し訳ありません。

 さて、宗教にかかわる言葉で、「汝の罪は深い」とか、「汝の罪を許す」という言葉を聞くことがありますが、このことについて、深川倫雄先生が述べられています。

 西本願寺のパンフレットに掲載されていた一部をご紹介します。

 「『無量寿経』の前半は「弥陀分」というて、お釈迦さまが、阿弥陀さまとはこういう仏さまなんだとお説きになっているけれども、その中には一カ所も我々の生き方が告げていない。また一言も私どもの罪が深いとは説いていない。有り難いね、これは。罪深い者に『汝の罪は深い』と告げるひまはないんだ。

 川端を通りかかったら、子どもが土手で遊んでいたらしゅうて、一人で溺れておる。そこへ通りかかって『こんなとこで相撲とるから溺れるんじゃないか』と、罪を告げるひまはないではないか。溺れておるなら、何であろうとまず先に救うてやらねばならん。

 それがお救いなんだから『我何をなすべきか』ではなくて、『仏何をなしたもうか』を聴聞するんですよ」とおっしゃっています(『如来をきく』彰順会篇・深究社)。

 阿弥陀さまは、おまえは罪が深いとか、おまえのここが悪いから直せとか、おっしゃる仏さまではありません。

 阿弥陀さまは、私たち一人ひとりの苦悩を知りぬいて、一時も休むことなく案じ通し心配し通しの仏さまであり、悩み苦しみ多き私たちのために、今立ちあがっていかねば間に合わぬという親心を現した姿が、あのお立ちになった姿の阿弥陀如来であり、私たちの罪をとがめることなどなく、私たちそのままを救い取ってくださる仏さまであります。

 まことにありがたい仏さまであります。

10月16日~私の罪をとがめることなく2022年10月18日【414】

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