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3月1日~「させて頂きます」ということ

 木々が新芽を出す時期を「木の芽時」と言います。ようやくあたたかくなってきました。

 さて、私たちが日常使う言葉に「何々させて頂きます」があります。この言葉について、作家の司馬遼太郎さんがこのようなことをおっしゃっています。一部紹介します。

 『日本語には、させて頂きます、というふしぎな語法がある。この語法は上方から出た。ちかごろは東京弁にも入りこんで、標準語を混乱(?)させている。

 (中略)この語法は、浄土真宗(真宗・門徒・本願寺)の教義上から出たもので、他宗には、思想としても、言い回しとしても無い。

 真宗においては、すべて阿弥陀如来(他力)によって生かしていただいている。三度の食事も、阿弥陀如来のお蔭でおいしくいただき、家族もろとも息災に過ごさせていただき、時にはお寺で本山からの説教師の説教を聞かせていただき、途中、用があって帰らせていただき、夜は九時に寝かせていただく。

 この語法は、絶対他力を想定してしか成立しない。それによって、「お蔭」が成立し、「お蔭」という観念があればこそ、「地下鉄で虎ノ門までゆかせて頂きました」などと言う。相手の銭で乗ったわけではない。自分の足と銭で地下鉄に乗ったのに、「頂きました」などというのは、他力への信仰が存在するためである。最も今は語法だけになっている。(『街道をゆく24近江散歩、奈良散歩』朝日文庫より)』

 司馬さんがおっしゃるとおり、今は語法だけ、形だけが残ってしまったことは残念なことですが、私の今日一日の一つ一つがアタリマエ、アタリマエではなく、阿弥陀如来の大いなるはたらきによって支えられている、生かされている、おかげのなかにあるという実感が、「させて頂きます」という言葉の中にあるということを、今一度ふり返りたいと思います。

 今月は春のお彼岸です。ぜひお寺にお参りください。

3月1日~「させて頂きます」ということ2025年03月01日【470】

2月16日~小さいことを重ねる大切さ

 春には、淡いという言葉がよく似合います。ほのかにかすむ感じ、美しい余韻を感じる言葉です。

 さて、先月一月二十一日、米国の野球殿堂は今年の殿堂入りの表彰者を発表し、イチローさんがアジア人で初めて選出されました。

 プロ野球・オリックスから、二〇〇〇年のオフに大リーグ・マリナーズに移籍し、二〇〇一年から十年連続で二百安打を記録、同時にゴールドクラブ賞を十年連続で獲得、大リーグ通算十九年で三〇八九安打を記録し、走攻守そろった外野手として、その功績が認められたものであります。

 その功績を讃える新聞記事で、イチローさんの言葉が一つ紹介されていました。

 「小さいことを重ねることが、とんでもないところに行くただ一つの道だ」

 その記事には、現役時代では普段の生活から全身の筋肉を意識しながら生活をしていたとありましたが、この言葉の通り、日々の厳しい練習はもとより食事や睡眠、休養の取り方など、計り知れないほどの努力を積み重ねてこられたのだろうと察することです。

 仏教には「精進」という言葉がありますが、これは「雑念を去って、仏道修行に専心する」ということですが、それが「目標に向かって怠ることなく一途に取り組んでその道を究める」という意味で広く使われるようになりましたが、イチローさんの「小さいことを積み重ねること」という言葉から、同様の意味が感じられます。

 またこの「精進」の元のインドの言葉は、virya(ヴィーリヤ)の訳語で、本来は「剛健」「勇者」「勇敢さ」という意味であり、一心に仏道修行を歩むものには、勇者のような気概を持ってたゆまず努め励む姿が理想であり、これも現役時代のイチローさんのその姿勢から感じられることです。

 この「精進」は元来雑念を去って、仏道修行に専心することです。浄土真宗の唯一の修行といえば仏法聴聞です。仏さまのみ教えを重ねて聞き続けることが、お浄土に参らせていただくただ一つの道です。来月は春のお彼岸です。ぜひお寺にお参りください。

2月16日~小さいことを重ねる大切さ2025年02月16日【469】

2月1日~罪の意識と後悔の思いを抱いて

 立春を過ぎると、光の輝きは次第に春めいてきます。

 さて、昨年の九月にラジオであるニュースを耳にしました。

 熊本市の戸島神社で、日ごろから神社の管理をしている総代会の人たちが賽銭の回収に訪れたとき、箱の中に手紙と十万円が入った封筒があったそうです。

 手紙には、「三十年以上になります。小さいころ家がまずしくてさいせんから、ぬすみました。本当にすいません。しっかりがんばってそれ以上のお金をお返しいたします。ずーっと考えてまして、今日、これて本当によかったです」。

 それは、過去の過ちを謝罪する手紙と償いとしての現金十万円でした。

 きっとこの人は幼い頃、貧しさの上から賽銭箱からお金を盗んでしまったことを三十年数年間、ずっと罪の意識と後悔の思いを抱いてきたのでありましょう。いつかいつかお返しなければとの思いを抱いてきたことが察せられる手紙です。

 もちろんお金を盗むことは犯罪ですから、その行為は許されるものではありません。後からお金を返してその時の罪がすべて消えるわけでもありません。またこのニュースを美談とすることも慎まねばなりません。

 しかしこのニュースを聞いてなぜか温かな気持ちになるのはどうしてでしょう。

 人は皆、完全な人は誰もいません。長い人生の中で、お金やものを盗むまではなくとも、言動や行動で他人を傷つけたり、過ちを犯したりすることはだれしもあることで、その重い罪の意識と後悔の思いにさいなまれることはあることです。人ごとではありません。

 しかしその思いを三十年以上消し去ることをせず、どうにか償いをしたいというその一人の人間の姿に感動を覚えるのです。

 「昔のことを反省して立ち直る姿を想像し、温かい気持ちになった」、「お金は神社のために使いたい。本人にも感謝を伝えられたらいいのだが…」。それは神社総代さんのこのような言葉にも表れています。

2月1日~罪の意識と後悔の思いを抱いて2025年02月02日【468】

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