こころの電話

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12月16日~たれか明日死のあることを知らんや

 ポインセチアの紅い色が鮮やかな季節になりました。

 さて、早いもので今年もあと僅かとなりました。

 年の瀬に、お釈迦さまのお言葉を紹介します。

 過ぎ去れるを追うことなかれ いまだ来たらざるを念うことなかれ
 過去、そはすでに捨てられたり 未来、そはいまだ到らざるなり
 ただ今日まさに作すべきことを 熱心になせ
 たれか明日死のあることを知らんや

  意味を申します。過ぎ去ったことを追うべきではありません。まだこれからのことをあれこれ考えるべきではありません。

 過去はもう捨てられたのと同じこと。未来のことはそこに到らないとわかりません。

 今日ただ今、やらねばならないことに精いっぱい努めることが大切なことです。

 誰しも、明日死んでしまうかもしれない命を抱えているのですから。

 この言葉の大切なところは、「ただ今日、まさに作すべきことを熱心になせ」というところです。

 私たちはともすると、過ぎ去ったことにいつまでもとらわれて、クヨクヨ思い悩んだりします。また、一年先二年先のことに思いをめぐらし、心配したり不安に駆られたりします。

 お釈迦さまは、過ぎ去ったこと、もしくは未来のことにいつもまでもとらわれていると、大切な今なすべきことを見失ってしまいますよ。今、あなたが出会っていることをしっかりと見つめなさいと諭されてるのです。

 今なすべきことをなさなければ未来はありません。あなたにとって、今なさねばならないことは何でしょうか。

 だれしも、慌ただしい年の瀬ですが、少し心を落ち着けて考えてみることも大切なことでありましょう。

 今年も覚照寺・心の電話をお聞き下さり有り難うございました。次は、二〇一三年一月一日、元旦にお話が変わります。

12月16日~たれか明日死のあることを知らんや2012年12月15日【182】

12月1日~大人はやがて何になる?

 枯れ葉と共に吹く風はとても冷たく、いよいよ冬将軍の到来です。

 さて、今月のお寺の掲示板にはこのような法語を紹介しています。

 子どもは、やがて大人になる。

 大人は、いったい何になるのですか?

 小学生から大人への質問で、以前、親戚のお寺の掲示板にあったものをお借りしました。

 実際に、この質問を小学生から投げかけられたなら、あなたならどのようにお答えになるでしょうか。

 一句目が、子どもはやがて大人に…ですから、答えは一言がふさわしいでしょう。

 仮に質問を受けた大人が三十代・四十代であれば、「やがてはおじいさん、おばあさんに」と何とか答えられますが、質問を受けた大人が六十代・七十代、それ以上だった場合はもうその先がありません。どうしましょう。

 その先は当然わかっています。やがては死人でしょうか、それともお骨になるのでしょうか。いや、この問いはそのような短絡的な答えを求めているのではないように感じます。

 もし、あなたが仏教徒であるならば、ご家庭にお仏壇があり毎日お参りをされているのであれば、ぜひとも「大人は、やがて仏様にならせていただくのですよ」と答えていただきたいと思います。仏教徒のやがては、死人でもなくお骨でもなく仏様になるのです。

 しかし、その仏様になるはずの自分自身の生活を少し振り返ってみましょう。本当に仏様になるような日暮をしているでしょうか。つい欲にかられ、愚痴、不平、不満、怒り、腹立ち、妬み、おごりの日暮をしているのではないでしょうか。

 そこが仏法聴聞の始まりです。私が仏様の道を歩むスタート地点です。

 あなたは、やがて何になるのですか?この小学生からの問いにしっかりと向き合って生活して参りましょう。

12月1日~大人はやがて何になる?2012年12月01日【181】

11月16日~“アホ”の自覚を…。

 季節はいよいよ晩秋、京都の山々は紅く染まっています。

 さて先般、朝日新聞の天声人語に、私たちの世界には、「ジェボンズの逆説」というものがあると書かれていました。

 イギリスの経済学者ジェボンズが唱えたもので、技術の進歩によって資源の利用の効率がよくなったのにもかかわらず、資源の消費量は減らずに、むしろ増加してしまうという逆説のことです。

 つまり、健康のためにニコチンの低いたばこに変えたのにもかかわらず、つい吸い過ぎてかえって量が増えてしまった。ダイエットのために、低カロリーの食事で過ごしていたのに、安心してもうちょっとだけと、つい食べ過ぎてかえって太ってしまった。などなど、自分の周囲でもこのようなことはよくあることです。

 新聞には、ケータイが発達したのに、逆に運転中のケータイによって事故が多発する。
自動操縦などの技術を駆使した旅客機でも、人為的なミスで事故が起きてしまうことなども紹介されていました。

 世の中のあらゆるものが便利、簡単になって、私たちの生活はより豊かになったはずなのに、実はそうならずに、かえって新たな悩みや苦しみが増えていってしまう。なぜでしょうか。

 仏教的に言えば、人は皆「凡夫」であるということでしょう。

 作家の阿満利麿さんは、「凡夫」とは、自分の欲に縛られて、しなくてもよいことまでしてしまう愚かさ。賢く振る舞っていても、どこか抜けている生き方。「わかっちやいるけどやめられない」という意思の弱さ。煩悩から離れられない存在。関西風に言えば、どうしようもない「アホ」ということだと言われます。

 「アホ」と言われれば人間腹が立ちますが、自らの日常を冷静に省みれば、否定できないことが多々あるのではないでしょうか。

 親鸞様は、自分自身が凡夫であるという自覚が大切ですと諭されます。平たく言えばアホの自覚です。なかなかハイと頷けませんが、それこそがアホの実態なのです。

11月16日~“アホ”の自覚を…。2012年11月29日【180】

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