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11月1日~一つ一つの行為の中に…。
秋風に枯れ葉が境内を舞っています。
さて、先日テレビで、タイのお坊さん方が肥満と病気で大変な思いをしておられるというニュースを見ました。
タイのお坊さんには、修行の一つとして托鉢がありますが、時代と共に、物が豊かになって、町の人たちからのお供え物の内容も次第に栄養価の高いものが多くなり、それを食べるお坊さん方が肥満や糖尿病で苦しんでおられるというのです。
少し聞いただけでは吹き出しそうになるお話ですが、実は大変なお話なのです。
町の人々は、托鉢にくるお坊さんに差し出す食べ物は、亡くなった先祖に対するご供養であり、したがってご先祖が喜ぶように少しでもおいしい食べ物をと、できる限りのよい食べ物を差し出します。
一方、人々から信頼の厚いお坊さんが、托鉢で集められた食べ物を食べることは、ご先祖が食べていることに等しいと考えられているので、お坊さんはその人々の願いを受けて、それらを一生懸命食べることが修行なのです。結果、お坊さんの肥満がどんどん進むわけです。
また、お坊さん方をさらに苦しめるのは、自由な運動やダイエットが許されていないことです。
タイのお坊さんは、俗界と縁を絶った出家者です。彼らが住む清浄なお寺は、町の人々の布施によって支えられており、お坊さんの修行の内容も厳しく定められており、休憩時間にジョギングをしたり自由に体操をすることさえもできないのです。
私は、テレビを見ながらタイのお坊さん方の仏道を歩む真剣さに頭が下がる思いがしました。そして、この純粋でひたむきな姿勢が町の人々の信頼にもつながっているのでしょう。
合理化と人間の都合によって制度を変えることは安きことかもしれませんが、一つ一つの行為に大切な意味と願いがあることも忘れてはならないことです。
11月1日~一つ一つの行為の中に…。 | 2012年10月28日【179】
10月16日~な~んだ、ただのアザラシか!
朝夕の冷たい風に、公園では落ち葉が舞っています。
さて先日、お仕事で北海道の旭川市に行きました。
現在勤務する大学関係の会合だったのですが、そこでの記念講演の講師が、赤字経営で閉園寸前の状況から見事自力で復活した「旭山動物園」の園長・板東元さんでした。
この会合のテーマが大学の経営論でしたので、赤字経営からどうのようにして復活したのか、ということを中心にお話をされたのですが、特に私の心に残ったのは園長さんが紹介された園内での一つのエピソードでした。
ある日、観覧に来た親子がアザラシの様子を見ていたそうです。子どもはアザラシが見せる様々な表情や仕草に興味を示し、親が「そろそろ次に行こうか」と促しても、なかなかその場を動こうとしません。
しびれを切らした親が言いました。「もう行こう、これラッコじゃないよ、ただのアザラシだよ」。園長さんは、問題はこの後の、子どもの受け答えだとおっしゃいます。
「な~んだ、ただのアザラシか」と言って親の言葉に同調し、すぐさまその場を親と共に離れたというのです。
つまり、大人やマスコミが大騒ぎするパンダやコアラやラッコは貴重でめずらしくて価値がある。アザラシなどはただの普通の動物と、いのちに優劣をつけ、その価値観を子どもに押しつける大人の姿がそこにあったとおっしゃいます。
ですから、旭山動物園には俗に言うめずらしい動物はいません。どの動物もあきることのないすばらしい普通の動物たち。それぞれの動物がそれぞれの動物らしく、一生を送ることのできる環境を整えて、そのありのままのすばらしさをお客さんに見てもらおうと、職員全員で取り組んでおられるということでした。
省みれば、私たちはついついマスコミに踊らされて、動物のいのちに優劣をつけてしまいがちです。その優劣のサングラスを取ってしまえば、どの動物もすばらしいいのちです。
これは人にも言えることかもしれません。
10月16日~な~んだ、ただのアザラシか! | 2012年10月13日【178】
10月1日~裏を見せ、表を見せて…。
お彼岸も過ぎて、朝夕次第に、肌寒く感じる季節となりました。
さて、曹洞宗のお坊さんで、多くの人々に親しまれた良寛さんの詩に、
裏を見せ 表を見せて 散る紅葉
というものがあります。
いよいよ秋も深まり、これから紅葉の季節。やがて一枚、また一枚、ひらひらと落ち葉が散っていきます。新緑の季節から日照りの強い夏を経て秋を迎え、いよいよ冬間近に散っていく枯れ葉は、裏を見せ、表を見せながら、地面に静かに落ちていきます。
良寛さんの辞世の一句といわれますが、七十歳のときから四年間お付き合いをした、貞心尼のお別れの詩に対し詠んだ句と言われています。
お坊さんでもあり歌人でも有名な良寛さんは、貞心尼と過ごした四年間の歳月は何一つ包み隠すことのない、純粋なものだったことを最後に伝えたかったのでしょうか。それと同時にこの詩は、落ち葉散りゆく姿に、人間の生きる姿を問うた詩と味わうこともできます。
つまり、人間も、いよいよ今生の命が尽きるその時に、これまでの生き様が洗いざらい見えてきて、その人がどれほどの人であったかがわかるということです。
私たちは日々、様々な喜びや悲しみ、時には怒りや悔しさを感じながらそれぞれ生活をしていますが、その人生が賎しくなるのも、逆に尊くなるのも、その人の行為、生き方によるのであり、いよいよ命が尽きるときに、それはあからさまになるのでしょう。
仏さまのお慈悲の光に照らされ、心豊かな仏道を歩まれた良寛さんは、その繕いようのない人の有様を、晩秋の落ち葉に見られたのでありましょう。
裏を見せ 表を見せて 散る紅葉
暮れゆく秋に、少し仕事の手を休めて、落ち葉に目を向けて、その姿を味わうのもいいものです。
10月1日~裏を見せ、表を見せて…。 | 2012年10月01日【177】