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9月16日~子どもに物事を言うほどに…。

 九月も半ば、朝夕はめっきり涼しくなりました。

 さて先日、ある本を見ておりましたら、教育家の矢野寿男さんに寄せられた中学生の詩が紹介されていました。

 自分の親に中学生が当てた切ない訴えです。

 「成績がよくて健康でやさしくて 素直になれと父は欲ばり」

 中学二年生の女の子です。「勉強して成績がよくなくてはダメ、好き嫌いをせず食べて健康でなくてはダメ、周囲の人にはやさしく、人間素直が一番」。この子のお父さんは、事あるごとに彼女にそう言っているのでしょう。そんな自分の父親を彼女は「欲ばり」と言っています。

 「オレの夢必ずおまえが果たせよ 重い期待で背も伸びずに」

 中学二年生の男の子からです。「お父さんの果たせなかった夢をお前が絶対に果たすんだぞ、頼んだぞ」。そう父親からしょっちゅう言われているのでしょう。重ねるように覆い被さる無理な期待で、背も伸びやしないと訴えています。

 「うちの子はまるでダメだと大声で 客間で笑う父を許さず」

 お客さんを前にして、きっと謙遜して父親は言ったのでしょう。しかし、子どもはしっかりと聞いていました。普段は頑張れ頑張れ、期待してるぞ、夢を持て、人には優しく素直に…などと言いながら、人前ではうちの子はダメと笑いながら言うのか…。やってられない。中学一年生の叫び声が聞こえてきます。

 私はこの三つの詩を読んで、父親としての自分を反省させられました。

 常々一方的な期待を寄せる親でもありました。またわが子に期待するがあまりに、つい欲ばりな親にもなっていました。人前で安易にわが子を軽んじる傾向もありました。

 自分では知らず知らずのうちに、心のどこかに、苦労して育ててやってる、だから親の思い通りに、言う通りにという、おごりがあるのかもしれません。

 子どもに物事を言うほどに、親としての自らを省みる必要があるようです。

9月16日~子どもに物事を言うほどに…。2012年09月16日【176】

9月1日~セミと鳩と人間の命は…。

 初秋とは言え、残暑厳しい毎日です。

 公園では、賑やかだったセミの声も次第に小さくなり、代わりに虫たちが鳴き始めます。

 昔からセミは短命の象徴のように言われますが、命が一週間というのはジンクス的なもので、中には一カ月も生きるセミもいるそうです。

 しかし、人間や他の動物に比べると短いことにかわりはなく、一度きりの命を、しかも真夏の一時を精いっぱい鳴き続け、やがて死んでいきます。

 お経の中にこのようなお話があります。

 昔、インドでシヴィという王様がいました。ある日、一羽の鳩がお城に助けを求めて飛びこんで来ました。すると間もなくしてその鳩を追って一羽の鷹が飛んできました。

 そして鷹は、「王よ、その鳩を私に渡してくれ」と言います。鳩をかくまう王様は、「この鳩でないとだめか」と聞くと鷹は、「私はこの数日何も食べておらず、このままだと死んでしまう。だから鳩をよこせ」と答えます。

 心のやさしい王さまは、ならば代わりに鳩の肉の分だけ、私の肉を与えよう」と言い、秤をもち出して、一方に鳩を乗せ、一方にその分だけ自分の足の肉を切って乗せます。しかし、秤は動きません。

 ならばと、また肉を切って乗せますが秤は動きません。次から次に自分の肉を切って乗せますが、いっこうに秤は動きません。ついに王様は、自分の体ごと秤に乗りました。すると、その時やっと秤が動いて釣り合ったというお話です。

 つまりこれは、小さな鳩の命も、人間の命も等しく尊いことを伝えたお話です。

 セミはたとえ短命であろうとも、その命を精一杯生きぬいて、死んでいきます。

 一つの尊い命、一度きりの命という点では、セミも人間も変わりはありません。

 秋に向って次第に小さくなりつつあるセミの声に、いのちの有り様を感じるのもよいのではないでしょうか。

9月1日~セミと鳩と人間の命は…。2012年09月01日【175】

8月16日~人が、人として育つということ。

 今年もお盆が過ぎていきました。

 各ご家庭では、お仏壇をきれいにお飾りしてご家族でお参り下さったことでしょう。

 特に、普段は遠くにお住まいの子どもさんやお孫さんが帰省して、一緒に仏さまにお参りされることは、何よりも有り難いことです。

 お仏壇を求めると、その家に死人が出るなどと迷信をいう人がたまにいますが、私は若い核家族のご家庭にも、早くお仏壇をお迎えして家族でお参りをする生活をお勧めしています。

 申すまでもなく、お仏壇は、ご先祖方がお参りになった仏さまのお浄土の世界を形に表したもので、私たちが仏さまのお慈悲と智慧を味わい、信仰を深めていく場でありますが、それと同時に、人が人として育れられる場でもあるからです。

 例えば、朝夕の食事の前には、必ずお仏壇に手を合わせお参りをします。多くのいのちと多くの方々のお陰によって、今日も食事を頂き生かされている感謝の心がわいてきます。

 ご先祖の命日の時に、ご法事を勤めたりしますが、自らの命が親やご先祖とつながっていること、決して自分一人だけの命ではない、命の絆の不思議さを感じさせられます。

 人様から頂き物をしたときなど、まず、お仏壇にお供えして、「いただきます」と仏さまにお礼をしてから封を開けます。自分一人で生きているのではない、多くの人様のお陰によって私の日暮らしが成り立っていることを感じます。

 人が、人として育つとは、このような仏さまに対する尊敬や感謝の気持ちを持つ日々の繰り返し、積み重ねによってこそ成就すると思うのです。

 テレビや新聞では、耳を疑いたくなるような青少年のいじめや暴力が問題になっていますが、世の中からお仏壇を中心にした生活が少なくなりつつある現状と決して無関係ではないと思うのです。

 仏さまを中心にしたすばらしき家庭生活を省みたいものです。

8月16日~人が、人として育つということ。2012年08月16日【174】

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