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3月1日~私は何しにここに来たの?
三月は別れの季節。卒業や転動、引っ越し、そして年度末でそれぞれに慌ただしい季節です。
さて、年を重ねてくると、何かをするために今、この部屋に来たのだけれど、何をしに来たのか、思い出せないというようなことはないでしょうか。
私自身も、「まだまだ若い」と言われる世代ですが、それでも時折このようなことを経験します。
そんな時、自分自身に対して大変もどかしく、またとても情けない思いに駆られます。自らの行動なのに、その目的が自分で分からないからです。こんな残念なことはありません。
でも同様のことが、自分の人生にも言えるのではないかと思います。
この世に生を受けて長い間生きては来たものの、自分は何を目的に生きてきたのか、そして自分のいのちはどこに向かって生きているのかという問題です。
人は誰しも必ず死を迎えます。しかもそれはいついかなる時か誰も分かりません。
その時に、自分の生きてきた人生が確かな目標を持ち、自分のいのちの行く末がはっきりわかっている人は、充実感と安心に包まれた最後を迎えることができるでしょう。
あなたの人生の目的はお金や財産でしょうか。地位や名誉でしょうか。家族を養い子どもを育てることでしょうか。優雅で快適な生活、あるいは健康を保つことが目的でしょうか。
しかしお金や財産、地位や名誉、家族と必ず別れ、最後には自分の生命も失わねばならないのが、私たちの厳しい現実でもあります。
そして、今の今、何かをしにここに来たのに、それが分からなくなる私たちですから、時にはそのことをゆっくり考えてみるのも大切です。
お彼岸はお浄土に参られた方々を偲ぶとともに、仏さまのみ教えを聞く大切な期間です。
日頃の忙しい手を少し休めて、自分の人生の目的といのちの行く末を、仏さまに問い尋ねてはいかがでしょう。どうぞ、近くのお寺にご参詣ください。
3月1日~私は何しにここに来たの? | 2015年03月01日【235】
2月16日~暖かな光とぬくもりを待って…。
暦の上では立春は過ぎましたが、外はまだまだ冷たい風が吹いています。
東北地方や北海道では記録的な積雪と暴風で、心よりお見舞い申し上げます。
立春とは一年間を二十四に分けた二十四節気の第一に当たり、この立春から立夏までのことを春と呼びます。ですから立春とは、春が始まった第一日目ということになります。
節分にはこの立春、立夏、立秋、立冬とありますが、マスコミなどでひときわ立春が大きく扱われがちなのは、やはり暖かな春を待ち望む人々の心の表れでありましょう。
人間の感覚は不思議なもので、厳しくつらい期間、あるいは堪え忍ぶ期間は、同じ時間でも長く感じるものです。
雪が多い北国では毎日の雪かきの作業は危険が伴いご苦労も多いことでしょう。どんよりとした雲が長く立ちこめる地域では光がとぼしく、人の心までも滅入ってしまうものです。
春になると草木に宿る芽がそのときを待ち焦がれいっせいに芽吹くように、人が暖かな風と光を待ち焦がれるのは当然のことかもしれません。
人間は、冷たい世界、暗い世界には耐えられないものです。ぬくもりのない世界、光のない世界では誰しも生きてはいけないのです。
そのことは人間の体だけではなく心も同様でありましょう。
自分自身の心が固い殻で包まれて、光が閉ざされ、優しさや思いやり、ぬくもりのない生活をしていては、まことの幸せを感じることは少ないはずです。
自分自身の心に燦々と光が差し込み、暖かでさわやかな風が吹き込んでこそ、人は心を思いきり開いて力強く生きていくことができます。
その光こそ仏さまの智慧の光です。その暖かでさわやかな春風こそ如来様の慈悲の風です。
暖かな光に照らされぬくもりにあふれた日暮らしは、ひとえに仏法聴聞から始まります。
2月16日~暖かな光とぬくもりを待って…。 | 2015年02月17日【234】
2月1日~知識生かす知恵あってこそ。
全国的にインフルエンザが猛威を振るっています。
さて、新たな年が明けて間もないのに、イスラム国による日本人の殺害など痛ましい事件が発生し、大変残念で悲しい思いがします。
日本においても、名古屋大学の十九歳の女子学生が高齢の女性を殺害したという事件があり、その女子学生は調べに対し「中学生の頃から人を殺してみたかった」と述べ、さらに高校時代には友人に薬物をもったとも述べ、現にアパートより毒性の強い薬物が見つかったと報道されていました。
また昨年、これと同様の事件が長崎で発生したことも記憶に新しいことです。
いずれも残忍な事件でただ驚くばかりです。またいずれも優秀な学生でそれだけに「なぜ」という疑問がわいてきます。
人にとって知識が多く、優秀なことにこしたことはありません。しかし知識は頭の中に材料を多く詰め込んだようなもので、それを正しく上手に生かす技術がなければ意味をなしません。それを智慧といいます。
例えば、いくらよい食材がそろっても、一つ一つの食材の特徴を正しく理解し、それぞれの食材が最高に生かされるように的確な料理ができる技術を持った料理人がいてこそ、すばらしい料理はできあがります。
正しい技術を持たない料理人であればまずい料理になるでしょうし、誤った理解を持った料理人であればせっかくの食材を腐らしてしまうこともあるでしょう。
それと同じように、人は皆、知識を生かす技術を持つことが大切です。またそれと同時に、いくら多くの知識を持っていても、人は誤りをおかす可能性を持ちながら生きているという自覚も必要です。
それには幼い頃より、人として生まれて生きていく上で何が大切なのかを学ぶ機会を持つことが重要であり、その教えこそ仏教の智慧であります。
人は知識だけでは、本当に心豊かなまことの人生を歩むことはできません。
常に自分の本当の姿が明らかになり、自分の歩むべきまことに道を知らなければなりません。仏法を聞く功徳と利益はそこにあるのです。
2月1日~知識生かす知恵あってこそ。 | 2015年02月01日【233】