こころの電話

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4月16日~お育ていただいたお礼に…。

 今年の春は雨と曇りの日が多く、清々しい春の風に吹かれることが少ないようです。

 さて、学校や会社では三月に別れがあり、そして今月には新たな年度がスタートしましたが、数年前、お寺の幼稚園でこのようなことがありました。

 卒園式が終わり、幼稚園の先生方が新入生を迎える準備をしていたら、ある卒園児が家族で幼稚園を再び訪れました。

 その卒園児は、卒園を機に、お父さんのお仕事の都合で、別の町の小学校に進学する子どもでした。

 なぜ、卒園後、再び幼稚園を訪れたのか。その理由を一緒に来られたおばあちゃんが言いました。

 「先生、お陰さまでこの子はこの幼稚園で三年間、お育てを受けました。そして卒園を機にこの町ともお別れです。ですから、幼稚園のホールの仏さまに家族皆でお育てをいただいた感謝とお別れのお参りに参りました」

 そして、家族全員で幼稚園のホールの中心にいらっしゃる阿弥陀さまにお参りをされたのです。

 元本願寺新報編集長の三上章道先生は、著書『合掌ができる社会へ』(本願寺出版社)で、「合掌することは宗教行為の基本であるとともに、自己を見つめて他人に思いを至らす行為であります。また、感謝の気持ちを表すときにも合掌します」と述べておられますが、まさしくその大切さを教えられた出来事でした。

 人間が成長し生活していく社会では、法律や道徳は必要です。しかし、さらに大切なのは宗教であり信仰です。なぜなら、法律や道徳は外側から人を縛るものですが、宗教は信仰によって内側から人を育てるものだからです。

 もちろんその宗教がまこと真実の教えでなければなりませんが、その基本は先ほどの三上先生の言葉の中にありましょう。  

 きっと、この園児の心には、その日のことが一生、尊く素晴らしい思い出として残ることでありましょう。

4月16日~お育ていただいたお礼に…。2015年04月16日【238】

4月1日~死んでからのことでなく…。

 三月末に満開になったさくらが、風に花びらを散らしています。

 さて、四月八日はお釈迦様の誕生日で、多くのお寺では誕生仏に甘茶をかけてお祝をいします。

 お釈迦様はお生まれになると、すぐに七歩歩いたと伝えられます。いくらお釈迦様でも生まれてすぐの赤ちゃんが歩くことはできないので、きっと、その偉大さと教えの尊さを讃えた伝承でしょうが、七歩という数に意味があります。

 六つの迷いの世界である六道を越えるということです。

 つまり、憎しみ争いの世界である地獄、貪りにあえぎ苦しむ餓鬼、感謝と恥を知らない畜生、疑念と驕りより争いの絶えない修羅、老病死に苦しむ人間、欲多きがゆえに苦しみも多い天上の、六つの世界です。

 これは古代インドにおいて、仏教が生まれる前にあった考え方で、お釈迦様が七歩歩いたということは、仏の教えを聞くものは、この六つの迷いの世界を越えることを示しています。

 この六道の世界で教えられることは、迷いの心と苦しみの結果が必ずセットになっていることです。

 怨み憎しみや疑いや驕る心は争いを生みます。貪りの心は飢えと渇きを生みます。真実に暗いものは老病死に苦しみます。欲に溺れるものが受ける苦しみは倍増します。

 これらはすべて私が死んでからのことでなく、私の心の内にある迷いの心に気づかないところから、いつでもどこでも始まる苦しみ世界です。

 「そんな簡単な理屈は分かっている」という方がおられるかもしれません。分かっているならこの世に争いは起きません。人生に悩む人もいません。その簡単な理屈が自分のこととして正しく受け止められないところに問題があるのです。

 お釈迦さまは、迷いの世界を必ず越えられる、苦しみを解決できると言われました。
 それは仏さまの教えを聞くことから始まります。

4月1日~死んでからのことでなく…。2015年04月01日【237】

3月16日~新たな出会いが必ず生まれる

 お彼岸が近づき、やっと春めいてきました。

 さて、今月十一日は、東日本大震災より四年目となりました。

 震災で亡くなった方は一万五八九一人、行方不明者は二五八四人、現在避難生活されている方は二十二万九〇〇〇人。被災地では、今現在も見つからないご家族を探しておられると伺います。

 お寺でも追悼のお勤めをさせていただきました。被災された皆様方に、あらためて心よりお見舞い申し上げます。

 仏教で「無常」と表現されるように、私たちのいのちの世界は、いついかなる時に何が起こるかわかりません。

 しかし同時に、仏様に手を合わす私たちには、また会える世界があるともお聞かせいただきます。

 私にとって「大切な人の死」というものが、喪失では終わらないということです。

 いのちは無常にて悲しくも、私たちは人間同士の関係をいつかは終えていかねばなりません。しかし新たなる出会いが、新たなる関係が必ず生まれる、まなざしに照らされる世界があるということです。

 私自身も既に、幼なじみや親しい友人を病気で亡くしました。

 お仕事をしていても、車の運転をしていても、ご飯を食べていても、ふっと思い出し、彼らは既に自分と同じ世界にはいないのだなと、誠に寂しい思いに駆られます。

 しかし、仏さまに手を合わすときはもとより、毎日の日暮らしの中で、彼らが見ていてくれている、私の人生を支えてくれている、生かしてくれているというはたらきを感じるのです。

 共にこの娑婆世界で生き、直接話しているときは感じなかったけれど、お別れをして初めて、その友人たちと新たな出会い直しをしたという実感があるのです。ありがたいことです。

 仏さまといえば、私たちはすぐにあの仏像の姿を連想してしまうのですが、実はそのはたらきそのものをいうのかもしれません。

3月16日~新たな出会いが必ず生まれる2015年03月16日【236】

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