こころの電話

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7月16日~多数の人が正しいと言っても…。

 梅雨明け間近、日増しに日差しが厳しくなります。

 昔々、インドのある国に起きた出来事です。

 あるとき、その国に毒を含んだ大雨が降りました。その雨にうたれると、七日の間、気がおかしくなってしまうのです。

 前もってそのことを知っていたその国の王様は、急いで家来たちに知らせようとしましたが、間に合わず家来たちはその雨にうたれ、また飲んでしまいました。 そして家来たちは気がおかしくなり、皆裸になって踊り出し、王様のいる宮殿に押しかけました。

 宮殿にいた王様を見て、家来たちは叫びました。「大変だ、王様は気がおかしくなられた。服を着ておられるぞ」。気がおかしくなった家来たちから見ると、服を着ている王様の方がおかしく見えるわけです。

 賢明な王様は機転を利かして、「そうか、私は気がおかしくなったらしい。急いで薬を飲もう」と言って、薬を飲むまねをして、そして服をぬぎ、家来たちとともに踊って、家来たちはその王様の姿を見て安心しました。

 七日後、ようやく毒水の効果も無くなり、家来たちは正気になりました。そして自分の裸の姿に驚いて、慌てて服を着ました。再び王様の姿を見て家来たちは騒ぎ出しました。

「大変だ。王様が裸でおられるぞ。気がおかしくなられた」。

 王様は家来たちに言いました。「私は大丈夫だ。今までおまえたちに合わせていただけだ。みんなが正気に戻ったようだから、私もそろそろ服を着よう」。

 その国は再び、もとどおりの平和な国になりました。

 このお話は、多数の人が正しいと言っても、それが間違っている場合もあることを教えています。

 集団的自衛権の行使を可能にする安全保障関連法案は、衆議院本会議で採決が行われ、賛成多数で可決されて、参議院に送られました。

 憲法九条違反の問題や、国民の十分な理解が得られないままに、数の論理で法案成立へ加速度的に進むことが危惧されます。

 未来の子どもたちのために、よくよく考えてほしいと思います。

7月16日~多数の人が正しいと言っても…。2015年07月17日【244】

7月1日~あなたにケータイの仏教を

 「今年はよく雨が降りますね」との挨拶がいたるところで聞かれます。

 さて先般、ドイツから来られた女性のお坊さんの講演を聞きました。

 その方は、当初建築のお仕事で来日され、また大学院で学び、日本のお寺のご子息とご縁があって結婚され、そして仏教を学び得度を受式し、僧侶となられたのです。

 講演では、外国人から見た浄土真宗・お念仏の教えの特徴を、お話しくださいました。

 特徴の一つ目は、家を持ち定住し、家庭を持ち、仕事をし、子育てをし、地域での生活を営む、いわゆる在家のための仏教であるということです。

 このような在家の生活を営む者は、覚りを得るための修行も、座禅も、托鉢も、荒行もままなりません。そのような私たちが、如来の覚りに向かうことのできる教えということです。

 二つ目は、怒りや腹立ち、ねたみやそねみの煩悩が止むことのない凡夫が、煩悩を持ったまま救われる教えであるということです。

 それは煩悩を断つことのできない私を必ず救おうと、飽くことなく、阿弥陀如来がはたらいていてくださるからです。

 三つめは、女性の救いが明確に説かれた教えであるということです。阿弥陀如来の願いはわけへだてのない無条件の救いであります。

 四つめは、修行も、道具も、お金も、何もいらない。南無阿弥陀仏のお念仏一つで救われる教えであるということです。

 それを、その方は「ケータイの仏教」と喩えられました。

 ケータイ電話のような、というと軽々しく聞こえますが、よく考えるとケータイは今や誰でも、どこでも、どんなときでも気軽に所持でき、電話はもちろん、地図や辞書、カメラなどほとんどが揃い、あらゆる時の助けになります。

 そのいつでも、どこでも、どんなときでも、お念仏一つで私を助け導いてくださるのが浄土真宗の教えと喩えられたのです。有り難いことです。

7月1日~あなたにケータイの仏教を2015年07月01日【243】

6月16日~人間の基礎を養う幼児期から…。

 毎日大雨続きで、大きな災害が起こらないことを心から願います。

 さて、新聞やテレビで,中学生グループの暴行事件や、青年の車の暴走による痛ましい事故が報道されていますが、このような事件・事故を耳にする度に、幼い頃からの宗教情操教育の大切さを思います。

 宗教情操教育とは、宗教を単に知識としてでなく、生きるための重要な心のより所なるような世界観、価値観として、人を教育することです。

 このことを、元岐阜聖徳学園学長の口羽益夫先生は、宗教は「心の羅針盤」とおっしゃっています。

 どれだけ科学が発達しようとも、どれだけ経済的に豊かになろうとも、人間は老いること、病で苦しむこと、死ぬことから逃れることはできません。

 また日常も、常に自己中心的な思いにとらわれて、多くの不安や苦しみの中で生活をしているのが人間の姿であり、その長い人生には、どのような困難が起こるか分からないのが現実です。

 情操とは、真実なる、善なる、あるいは聖なる、美しき価値あるものに出会い、心惹かれ、それらに少しでも近づいていこうとする高度な感情です。

 怒りや憎しみ、またキレルというような一過性のものではなく、知的で持続的で高尚な感情です。

だからこそ、人間の基礎を養う幼児期からの宗教による情操教育が大切なのです。

 難しいことをする必要はありません。朝夕、家族そろって仏さまに感謝のお参りをし、時には仏さまのお話を聞かせていただく。

 食事のときは手を合わせ、「いただきます」と感謝の心でいただく。

 よそ様から頂き物をしたら、まず仏さまにお供えをしてからいただく。

 感謝の心が一つ一つ形に表れた日々の生活から、自然のうちに心豊かな人が育まれていくのです。

 仏さまの教育は幼き頃から、それは先に、仏さまにご縁をいただいた者の責務であります。

6月16日~人間の基礎を養う幼児期から…。2015年06月16日【242】

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