9月1日~見えていようがいまいが…。
長い夏休みも終わり、子どもたちはいよいよ二学期のスタートです。
さて、数週間前、たまたま見ていたテレビに島根県の原益夫さんという方が出ておられました。
原さんは、目が不自由でありながら、介添えの人を頼りに山登りやマラソンをされている方で、元気な声を出しながら足下の困難な山道を、力強く登る姿が画面に映し出されていました。
数年前に奥さまに先立たれて、現在はお一人で生活されているそうです。
原さんへのインタビューもありました。そのままではありませんが、記憶に残る言葉を紹介します。
「目が見えなくなって、見えていたときよりも、多くのものが見えるようになりました。人の優しさ、思いやり、多くの支え、見えているときよりもずっといいです」
「私は、風の音、鳥の鳴き声、山の自然の風景を感じとることができます」
「見えていようが、見えていまいが、いろんな多くの方々に生かされて生きています。そのおかげで、悩みが多ければ、それが自然に喜びに変わってきます」
おおよそこのようなお話をされていましたが、元気よく堂々と話されるお姿、その喜びにあふれた話しぶりを見て、私は自分自身が恥ずかしくなりました。
毎日、いろんな方々の優しさや思いやりに恵まれていながら、本当にそのことが分かっているのか。
何でも聞こえ、何でも見ることのできる耳や目を持ちながら、本当に、風の音や鳥の鳴き声や聞き、花の美しさを見ているのか。
生かされて生きていることを、心から感じ感謝の日暮らしをしているのか。
ともすると、自分自身の恵まれた環境に甘えて、あるいは麻痺して、本当のお陰さまの心が分かっていないのではないか。
原さんの言葉は、そのことを厳しく私に問う仏さまの言葉のようにに聞こえました。
2015年08月31日【247】