こころの電話

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3月16日~刻一刻刻一刻と・・・

三月も半ば、少しずつ春の訪れが近づいているように感じます。

さて、鹿児島はサツマイモやお茶、さやえんどう、オクラなど多くの農作物が生産量全国一位です。県内のいたる所に広大な畑が広がっています。私は、その畑に囲まれた道を車で走るのですが、時折、驚きを感じることがあります。

夏にはスイカでいっぱいだった畑が、冬になればいつの間にか大根畑へと変わっています。またそれらの収穫が終われば、いつの間にか休息の畑へと変わっています。

畑で囲まれた道を通るたびに、気がつけば作物は立派に育ち、気がつけばいつの間にか収穫が終わり、気がつけば新たな作物の栽培が始まっていて、自然の営みの中で、農家の方々のお世話によって農作物は日々成長し、畑は季節や時期によって、常に変化をしていることに気づかされますし、一年一年、それらの営みがあっという間に、過ぎ去っていることに気づかされます。 
 
仏教では、すべてのものは同じままにとどまることなく、常に移り変わっているという「諸行無常」という教えがあります。

畑や作物だけではなく、この世のあらゆるものは常に変化し続けています。そしてその無常の理の中に、私自身もあります。歳を重ね、人と出会い、さまざまな影響を受け、多くの経験を積み重ねていく中で、心も体も少しずつ変化し続けています。

しかし、ふとしたときに「変わったな」と少し思うばかりで、普段は、その変化を感じることはありませんし、気づくこともありません。しかし現実には、私の心も体も、あなたの心も体も、刻一刻刻一刻と変化し続けているのです。

今日一日は、二度と帰ってこない一日です。今日の出会いは、二度とない尊い出会いかもしれません。「諸行無常」の教えは、そのことの大切さ、尊さを教えてくださいます。

日々み教えをお聞かせていただく中に、移り変わる命の現実に目を向けながら、今を大切に歩ませていただきたいと思います。

3月16日~刻一刻刻一刻と・・・2026年03月17日【493】

2月16日~自分事と思えない・・・

厳しい寒さの中にも、少しずつ穏やかな日が近づいているように感じます。

さて、日々の生活で生じる、様々なリスクに備える保険を損害保険と言います。 
 私は、お寺で勤める前は、損害保険会社に勤めていました。起こり得る事故を想定して、万が一の際にも、できる限り元の生活を取り戻せる補償を提案することが仕事でした。

その中で難しかったことは、そのリスクをどれだけ自分事として受け止めてもらえるか、ということでした。

自分がどれほど慎重に車を運転していても、相手からぶつかってくることもある。前の車が跳ねた石が飛んでくることもある。また、突然の自然災害によって、家が冠水することも、火災に巻き込まれることもあります。

それらすべて、自分自身の身に起こり得ることでありながらも、「自分は大丈夫」と、中々受け止めてもらえないことが多くありました

事故は予想もしないときに起こるものです。しかし、まさかこの私が今日事故に遭うとは誰も思いもしません。事故を経験して初めて、自分が事故に遭う身であると気付くのかもしれません。

それは、命の問題においても通ずるものだと、当時を振り返ったときに思いました。

生老病死の問題を抱える私たちは、日々老いに向かい、いつか病に苦しみ悩まされ、やがてはこの命を終えていく存在であることは知っていることです。しかし、それらが今この瞬間に、自分の身に訪れるとは誰も想像していないことです。幸せな日々が、明日も、明後日も続くと思い込んでいるのが私の姿です。

そのような日々を送りがちな私に、命の現実を知らしめてくださる教えが仏教であり、その私に救いの道を示してくださるのが浄土真宗のみ教えです。命の問題は遠い未来の話ではなく、私の今のことであります。

 繰り返し何度もみ教えをお聞かせいただく中に、自らの姿と向き合う心が恵まれ、限りある命を仏さまと共に大切に歩ませていただく生き方へと導かれていきます。

 共々に、お聴聞を重ねて参りましょう。

2月16日~自分事と思えない・・・2026年02月17日【492】

2月1日~張りすぎても、緩すぎても…

 真冬のあたたかで、ありがたい日光は「愛日」と言います。

 さて、日本は一気に国政選挙に動き出し、自民党と維新の連立に対する、立憲民主党と公明党からなる新党の党名が「中道改革連合」となりました。野田佳彦代表は、この「中道」の意味を「右にも左にも傾かず、熟議を通して解を見出していくという基本的な姿勢」と話しましたが、この「中道」という言葉は元々仏教で大切にされてきました。

 その教えを伝える逸話が今に残ります。

 お金持ちの家に生まれたソーナは、あるときお釈迦さまの説法を聞いて深く感動し、出家を願い出ました。

 仏弟子になったソーナは厳しい修行に専念し、それは足の皮が破れ、血が飛び散るほど激しいもので、ソーナは弟子の中でも自分ほど熱心に修行するものはいないだろうと自信を持っていました。

 しかし、いくら厳しい修行をしても煩悩を断ち切ることはできず、悟りを得ることができないソーナは落胆していました。

 そのソーナに対し、ソーナが出家する前に楽器の演奏が得意だったことを知っていたお釈迦さまは、琴のたとえをもって語りかけます。

 弦楽器の琴は、弦を強く張りすぎると不快な音を出しついにはちぎれます。緩すぎると心地よい音は出ません。弦がちょうどよい張り具合、バランスのとれているときに、よい音が出ます。

 仏道修行も同様で、張り切って激しすぎても、逆に怠けて弛んでいても進歩はなく、安らぎの境地は得られない。極端を離れたバランスのよい修行が大切であることをお釈迦さまは諭されたのです。

 この中道の教えは私たちの日常生活でも学ぶべきことです。

 一生懸命はよいことですが、張り切りすぎると周囲が見えなくなったり、思わぬところにひずみがでます。弛んでばかりでは、心は正しい方向に向きません。

 選挙投票はおのおのの考えとして、この中道の教えに、自らの日々の生き方を顧みてはいかがでしょう。

2月1日~張りすぎても、緩すぎても…2026年02月01日【491】

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