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7月16日~人間の存在そのものを見通して

 炎暑の夏ほど、せせらぎの音がすてきに聞こえる季節はありません。

 さて、先週のテレホン法話を聞いて下さったご門徒のBさんが、お寺にお参りになって、「他力本願とは昔からよく耳にしていましたが、他人の力を借りることじゃなかったんですね」と、話しかけてくださいました。

 他力本願について、本当の意味をご理解いただいたうれしさと同時に、私自身の常々の伝道不足をあらためて反省することでありました。

 「他力というは如来の本願力なり」と親鸞聖人が端的におっしゃっているとおり、他力とは、私をお救いくださる阿弥陀如来の本願力そのもののことです。

 一般に、他力の反対は自力と表現され、自力は自分を信じて、自分で努力によって迷いの世界を脱して、仏さまのさとりを得ようとすることです。

 親鸞聖人は九歳で出家され二十年という長い間、比叡山で自力の行に専念されましたが、自身の迷いを絶つことが難しく、本願念仏による救いを求めて法然聖人をたずねて行かれました。

 その生涯を通して聖人が自覚されたことは、親鸞この私は、真実のことは何もわからない愚かな私であるということと、そのような何もわからぬ凡夫を、そのままそっくり救いとってくださる阿弥陀という仏さまがおられるということです。

 一切事象の真実がわかるならばそれはさとりの世界であり、それはそのまま仏さまです。聖人にはどのような修行も完成できず、行に勤しめば勤しむほど迷いの世界に堕ちていくご自身の姿があり、聖人は真実が何かを見極める能力もなく、善悪を知り通す力もなく、生死を超える道を求めることもできない愚かな私を、そのまま救いとってくださる力こそ阿弥陀如来の本願力であることを諭されたのです。

 ですから自力は自分のはたらきこそ、他力は他人の力という単純な意味ではなく、他力とは、自他のとらわれを超えて、人間の存在そのものを見通して救わんと常にはたらく阿弥陀如来の本願力のことであります。

7月16日~人間の存在そのものを見通して2024年07月17日【456】

7月1日~自分の力では困難なこと

 七月二日は半夏生、もう一年の折り返し地点です。

 さて、先月十九日の南日本新聞に、翌二十日の鹿児島県知事選告知を前に、選挙管理委員会が啓発ポスターを作成したとの記事が掲載されました。

 その内容は、「こんな知事には県の運営を任せてはおけない」というユーモアを交えた架空の四人の知事が掲載されており、一つは柴犬の「犬知事」、寒いギャグを連発する「おやじギャグ知事」、実在するかも怪しい「バーチャル知事」、そして何かと人任せの「他力本願知事」という計四人が掲載されていました。

 新聞記事によると、投票率が低い傾向にあって、若い方々に選挙に関心を持ってもらうことを願って、また有権者に選挙を自分事としてとらえてもらうために作られたポスターでした。

 それに対し、本願寺鹿児島別院と鹿児島の浄土真宗六派で構成される真宗教団連合鹿児島支部より抗議文が提出されました。

 それは、「他力本願」という浄土真宗でもっとも大切にされる言葉が誤った意味で使用されていたからです。

 「他力本願」というと時折、「もっぱら他人の力をあてにする、他人まかせ」という意味で使われ、今回も人任せ知事として同様の意味で用いられていますが、これは大変な誤用だからです。

 他力とは阿弥陀如来の本願のはたらきであり、他力本願は阿弥陀如来より、私たち一人ひとりに向けられた救いの力であります。

 私たちの心は、怒りや腹立ちやねたみそねみ、また驕り高ぶりが常にまん延して、自分の力で悟りの道に向かうことはとても困難なことです。

 そのような私たちに、「この阿弥陀仏にまかせよ、わが名・南無阿弥陀仏を称えよ、必ず浄土に生まれさせて仏にならしめん」と向けられた真実の願いを阿弥陀如来の本願と言います。

 本願寺からの抗議を理解してくださり、すぐさま適切な対応をしてくださった県の選管様には感謝とともに敬意を示したいと思います。

 共々に「他力本願」のお言葉を正しく聞き開いて参りましょう。

7月1日~自分の力では困難なこと2024年07月01日【455】

6月16日~父の日の「お陰さまのお膳」

 毎日、日本のどこかで線状降水帯発生の予報が伝えられます。ともどもに気をつけましょう。

 さて、六月十六日は父の日で、有り難いことに、私も子どもたちから感謝の言葉をいただきましたが、ラジオでもそれに関連する放送があり、その中で、すでにお父様がお亡くなりになったご家庭からのお便りがありました。

 またその中、いくつかのご家庭では、お父様が生前好きだった食べ物を食卓に用意して、一緒に食べてお父様を偲んだということでした。

 その放送を聞いて、古来日本には陰膳という風習があったことを思い出しました。

 陰膳とは、一つには、遠くで離れて暮らす家族や知人の無事を願ってその人の食事を作るという意味があり、二つには、亡くなった方が四十九日間旅をするときに、食事に困らないように、また安らかな旅ができるようにと、食事を供えるという意味があるそうです。

 ただ浄土真宗では、即得往生といい、亡くなった方は阿弥陀如来の本願力によって、迷うことなく速やかにお浄土に往き生まれると説かれますので、亡くなった方の心配をする必要はありませんし、亡くなった方の食事を作る必要もありません。

 一方で、仏教は縁起の道理を説く教えです。縁起の道理とは、私という存在は多くの因縁によって育てられ生かされているということに目覚めるということで、言い換えれば私のいのちには両親をはじめ、数えることができないほどの多くのいのちが通い、ただ今の私が存在し生かされているということに目覚めることであります。

 陰膳の本来の意味は尊重されるべきですが、生前、お父様がお好きだった食事を用意して、ご縁をいただいたこと、お育ていただいたことに感謝して、懐かしい思い出とともにおいしくお食事をいただくならば、それこそ「お陰さまのお膳」・陰膳ではないかと、ラジオの放送を聞いて思うことでした。

6月16日~父の日の「お陰さまのお膳」2024年06月18日【454】

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