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8月16日~より良い社会を築くために

 近年では、短時間で激しい雨が降る「ゲリラ豪雨」が当たり前になりつつあります。大雨の被害に遭われた皆さまには、心よりお見舞い申し上げます。

 さて、八月のお盆休みには、多くの人が故郷へ帰省をされます。この時期には、自動車の交通量が増え、事故が多く発生します。

 私は最近、自動車安全講習のDVDを見る機会がありました。その動画の中に出てきた言葉がとても印象に残っています。

 「運転はこころのあり方が非常に重要であり、その中で最も注意すべきことは己への過信「驕りの心」である」というものでした。

 「これまで事故を起こしたことがないから」「ここは走り慣れた道だから」「運転には自信があるから」と、そのような理由で、「私は大丈夫」と思う「驕りの心」を私たちは誰しも抱いているというのです。

 動画の最後では、運転をする際には、時間に余裕をもち、自分自身の体調にも目を向けて、「私は大丈夫」ではなく、スピードを出してしまうことも、無理して運転し続けることもあるのが、この私だということを常に知っておくことが大事であることを伝えていました。

 私はこの動画を見て、自動車の運転だけでなく、私の生活、生き方全般に通じるものだと思いました。
 
 自分自身の生活を省みると、おおよそ生活が安定しているときは、すべてのことがあたりまえのように勘違いをして、慣れが生じたり、時には驕り高ぶる気持ちまででてきます。また、生活が思うようにいかない時は、他人を妬み嫉むこともあります。どこまでも煩悩から離れられず、不安定な心を私たちは抱いています。

 だからこそ、何度もお聴聞を繰り返し、阿弥陀如来のみ教えに出会わせていただく中で、少しずつ囚われの心から離れ、互いを思いやることのできる、心豊かな生き方をいただくのです。

 一人ひとりが、自分のこころのあり方にきちんと目を向けることができれば、ともに和やかで安心な社会が築かれていくのではないかと思うことです。

8月16日~より良い社会を築くために2025年08月16日【480】

8月1日~やがて一緒、いつも一緒

 暑い日が続きます。昔、中国にあったという涼しさを呼ぶ珠「招涼の珠」とやらがほしい日々です。

 さて、八月の仏事であるお盆は、亡くなった身近な方々を、あとに残る人々が偲ぶ日として毎年行われますが、よくよく考えると、その亡き人を偲ぶ人、つまりこの私たちもやがてその亡き人の数に入っていきます。

 いやいや、私のことはまだ先のこと…。果たしてそうでしょうか。僧侶の勤めをしていますと、決してお亡くなりになる方はお年を召した方ばかりではありません。人生これからの若い人、働き盛りまっただ中の人、そして思いがけない病気や突然の事故などその原因もさまざまで、本当に人のいのちには後先順番がないことを教えられます。

 そう考えますと、お盆という行事は、あとに残る方々が、亡くなった身近な方々を偲び感謝すると同時に、自分自身の死を見つめる日でもあるということです。

 自分のいのちが終わるとどうなるのか。自分のいのちがどこに行くのか。自分のいのちは今どこに向かって生きているのか。お盆は、その人生の問いをたずねていく仏事でもあるのです。

 そのことについて、いつも仏事でお勤めされる『仏説阿弥陀経』の中に、「倶会一処(くえいっしょ)」というお言葉があります。

 私はこのお言葉を、「やがて一緒、いつも一緒」と味わっています。

 やがて一緒とは、日々仏さまに手を合わせお念仏を申して生活をする人は、やがて一緒に会うことのできるお浄土がありますよということです。

 いつも一緒とは、日々仏さまに手を合わせお念仏を申し、その教えをいただいて生活する人には、いつも仏さまが寄り添ってくださり、お浄土への道が常に開かれていますよと味わいます。

 今年もお盆がやってきます。仏さまとなられた方々と倶会一処、やがて一緒、いつも一緒のお念仏の日暮らしをさせて頂きましょう。

8月1日~やがて一緒、いつも一緒2025年08月01日【479】

7月16日~「他力本願」 本来の意味とは

 蝉が鳴き始め、本格的な夏の訪れを感じる季節になりました。

 さて、浄土真宗には「他力本願」という大切な言葉があります。普段の日常生活においても、聞き馴染みのある言葉かもしれません。

 プロ野球の試合などで、自力優勝が叶わなくなったチームが、他のチームの結果次第で優勝ができる、といった場合に「他力本願」とネットや新聞などで用いられることがあります。

 この言葉は、世間一般的には「他人まかせ」という意味で用いられるようですが、本来はそのような意味ではありません。

 「他力本願」とは、阿弥陀如来の生きとし生きるすべての者を救いたいという強い願いのはたらきを意味します。

 煩悩を抱える私たちは、怒り腹立ち、妬み嫉むといった、どこまでも仏様のお心とは程遠い生き方しかできません。

 阿弥陀如来は、そのような私をほっておくことができず、必ず救いたいと願いを向け続けて下さる仏様です。

 もし、阿弥陀如来のおはたらきを分かりやすく言うならば、それは「風」にたとえられるかもしれません。

 私たちは、風そのものを目で見ることはできませんが、風によって動かされるものを見ることで、風の存在に気付くことはできます。

 風に吹かれ揺れ動く枝や葉っぱのように、阿弥陀如来はあらゆる仏縁を通して、迷いの世で悩み苦しむ私たちをお念仏申す身へと導いて下さっています。

 私もこれまで多くの方々の、手を合わせお念仏申す姿と出会わせていただきました。

 「南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏」と申す姿とは、阿弥陀如来の「どうかあなたを救いたい。どうかお念仏を称えてほしい」との願いそのままにお念仏申す姿でありました。

 「他力本願」とは、決して「他人まかせ」という意味ではなく、阿弥陀如来の私たち一人ひとりの命を必ず救いたいという強い願いのはたらきのことです。

 そして、阿弥陀如来の願いのはたらきによって、今この瞬間も、私たちはお念仏申す身へと育てられています。

 お聴聞を重ねていき、共々に、浄土真宗のみ教えを正しく聞いて参りたいものです。

7月16日~「他力本願」 本来の意味とは2025年07月16日【478】

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