こころの電話

最近の記事

11月16日~しあわせと言える生き方を

 日増しに肌寒くなり、冬がすぐそこまで来ているように感じます。

 さて、先日友人の結婚式に参列しました。新郎新婦ともにサーフィンが趣味ということで、海が一望できる披露宴会場でした。二人の幸せそうな姿を見て、微笑ましい気持ちになりました。

 「幸せ」という言葉は、結婚式の時に、特に用いられる言葉です。この度の式でも「お幸せに」「幸せな家庭を築いて下さい」といった言葉を度々耳にしました。私は「幸せ」という言葉には、二つの書き方があることを教わったことがあります。

よく用いられる字は、「幸福」の「幸」の字です。そして、もう一つが「仕(つか)え合(あ)う」と書いて「仕合せ」です。現代で用いられる字の語源とも言われます。
 「仕える」とは、相手のために尽くすという意味があります。「仕え合う」とは、お互いを尊重し、助け合いながら生活する、自分の心から離れた生き方のことです。

「幸せ」とは、互いを思いやり、支え合うことができればこその生き方であることを、語源をもとに知らされました。

 この考え方は、浄土真宗のみ教えにも通ずるように思います。

どこまでも自己中心的な物事の考え方から離れることができないのが私の姿です。都合の良いものは受け入れて、そうでないものは遠ざけていく。自分の都合の良いように相手を操ろうとすることもあります。

 自分の基準でしか物事を測れない私だからこそ、自分中心の解釈ではなく、仏様のお心を鏡として、わが身を振り返ることが何よりも大切であることを知らしめて下さるのが、浄土真宗のみ教えです。

 夫婦生活のみならず、社会におけるあらゆる人間関係において、互いを思いやり、助け合うことができれば、幸せと言える生き方に近づくのではないでしょうか。

 仏様の教えに耳を傾け、自らの姿を見つめた先に、まことの幸せが築かれていきます。共々にお聴聞を重ねていきましょう。

11月16日~しあわせと言える生き方を2025年11月20日【486】

11月1日~一喜一憂にとらわれることなく

 紅葉に彩られた秋のことを、錦の秋と書いて「錦秋」と言いますが、この錦とはさまざまな色糸を使って模様を織り出した美しい織物のことです。

 さて、禅宗の言葉に「日日是好日(にちにちこれこうにち)」というものがあります。日という字が二つ、是正するの是という字に、好き嫌いの好きという字、最後にまた日という字を書いて「日日是好日」です。

 お茶席の掛け軸でご覧になった方もいらっしゃるでしょう。唐の時代の雲門文偃(うんもんぶんえん)という禅僧の言葉です。

 これは、「日日、毎日が、これはいい日だ」という意味ではありません。

 私たち、いのちあるものの日暮らしには、何が起こるか分かりません。

 すべてがおだやかで、健やかな日暮らしであればいいのですが、突然の病気や事故に遭うことがないとは言えません。何らかの災難がどこに待ち受けているか分かりません。私の人生ではっきりしているのは必ず死ぬということだけですが、そのことを予知することはできません。

 人の命は本当にはかないもの。だからこそ、この一瞬、この今、何が大切かをしっかりと見つめて、今なすべきことを精いっぱい勤めねばなりません。

 しかし、人間とは難しいもので、その日その日の出来事に一喜一憂したり、過去のことにとらわれていつまでも悔やんでいたり、未来のことに心配ばかりしてしまうことも現実です。

 「日日是好日」とは、晴れの日雨の日、良い悪い、好き嫌いなどの感情にとらわれず、日々の一喜一憂にもとらわれることなく、あるがままをあるがままに受け止めて、今日この一日を精一杯生ききることができることのすばらしさを説いたものです。

 今日この日は二度と帰ってこないかけがえのない一日です。目の前の事柄に振り回されることなく、清々しく生きて参りましょう。

11月1日~一喜一憂にとらわれることなく2025年10月31日【485】

10月16日~いのちの現実と・・・

ようやく、秋の涼しい風を感じる季節になりました。

さて、仏教の教えをお説き下さったお釈迦様が二十九歳の時のことです。当時、お城に住んでいたお釈迦様は、東西南北にあるそれぞれの門から外に出られました。

東門では年老いた人の姿を、南門では病に苦しむ人の姿を、西門では亡くなった人の姿を、そして最後に北門では修行する僧侶の姿を見たといいます。お釈迦様は、命の現実を目の当たりにされて、悩み苦しまれ、出家を決意したといわれ、この出来事は、四門出遊として今に伝わります。

では、今を生きる私たちは命の現実にきちんと向き合うことはできているでしょうか。私はある先生に聞いた言葉が大変印象に残っています。

「今の日本は、命に蓋をしているように見える」

命の現実に目を向ける機会が失われつつあることを、表わされた言葉です。

お葬儀の形態も、昔は地域の人たちが協力してご自宅で勤めていましたが、今では葬儀社の主導による葬儀が当たり前になりました。また、人生の最期を迎える場所も、生まれ育った自宅ではなく、病院で迎える人がほとんどです。

葬儀のあり方や医療の発達などの、あらゆる環境の変化によって、命の問題が社会から見えづらくなり、どこか他人事になることを先生は問題視されていました。
そして、そのような状況下でも、命の現実と向き合える場所に身を置き続けてほしいというのが、先生の願いでした。

生れたからには、老いることも、病を患うことも、死ぬことも避けることはできません。どれ程時代が変わろうとも、厳しい命の現実が変わることはありません。

お釈迦様がお説き下さった仏教は、私の命の現実から目をそらすことなく、しっかりと見つめ、その上で、私が歩むべき確かな道をお示し下さる教えです。

お寺は、仏様の教えを通して命の問題と向き合うことのできる、いわば命の学校です。どうぞお寺にお参りいただき、共々に教えに耳を傾けましょう。

10月16日~いのちの現実と・・・2025年10月16日【484】

1  |  2  |  3  |  4  |  5    »    [162]

- 管理用 -

最近の記事

月別記事