こころの電話

最近の記事

11月1日~一喜一憂にとらわれることなく

 紅葉に彩られた秋のことを、錦の秋と書いて「錦秋」と言いますが、この錦とはさまざまな色糸を使って模様を織り出した美しい織物のことです。

 さて、禅宗の言葉に「日日是好日(にちにちこれこうにち)」というものがあります。日という字が二つ、是正するの是という字に、好き嫌いの好きという字、最後にまた日という字を書いて「日日是好日」です。

 お茶席の掛け軸でご覧になった方もいらっしゃるでしょう。唐の時代の雲門文偃(うんもんぶんえん)という禅僧の言葉です。

 これは、「日日、毎日が、これはいい日だ」という意味ではありません。

 私たち、いのちあるものの日暮らしには、何が起こるか分かりません。

 すべてがおだやかで、健やかな日暮らしであればいいのですが、突然の病気や事故に遭うことがないとは言えません。何らかの災難がどこに待ち受けているか分かりません。私の人生ではっきりしているのは必ず死ぬということだけですが、そのことを予知することはできません。

 人の命は本当にはかないもの。だからこそ、この一瞬、この今、何が大切かをしっかりと見つめて、今なすべきことを精いっぱい勤めねばなりません。

 しかし、人間とは難しいもので、その日その日の出来事に一喜一憂したり、過去のことにとらわれていつまでも悔やんでいたり、未来のことに心配ばかりしてしまうことも現実です。

 「日日是好日」とは、晴れの日雨の日、良い悪い、好き嫌いなどの感情にとらわれず、日々の一喜一憂にもとらわれることなく、あるがままをあるがままに受け止めて、今日この一日を精一杯生ききることができることのすばらしさを説いたものです。

 今日この日は二度と帰ってこないかけがえのない一日です。目の前の事柄に振り回されることなく、清々しく生きて参りましょう。

11月1日~一喜一憂にとらわれることなく2025年10月31日【485】

10月16日~いのちの現実と・・・

ようやく、秋の涼しい風を感じる季節になりました。

さて、仏教の教えをお説き下さったお釈迦様が二十九歳の時のことです。当時、お城に住んでいたお釈迦様は、東西南北にあるそれぞれの門から外に出られました。

東門では年老いた人の姿を、南門では病に苦しむ人の姿を、西門では亡くなった人の姿を、そして最後に北門では修行する僧侶の姿を見たといいます。お釈迦様は、命の現実を目の当たりにされて、悩み苦しまれ、出家を決意したといわれ、この出来事は、四門出遊として今に伝わります。

では、今を生きる私たちは命の現実にきちんと向き合うことはできているでしょうか。私はある先生に聞いた言葉が大変印象に残っています。

「今の日本は、命に蓋をしているように見える」

命の現実に目を向ける機会が失われつつあることを、表わされた言葉です。

お葬儀の形態も、昔は地域の人たちが協力してご自宅で勤めていましたが、今では葬儀社の主導による葬儀が当たり前になりました。また、人生の最期を迎える場所も、生まれ育った自宅ではなく、病院で迎える人がほとんどです。

葬儀のあり方や医療の発達などの、あらゆる環境の変化によって、命の問題が社会から見えづらくなり、どこか他人事になることを先生は問題視されていました。
そして、そのような状況下でも、命の現実と向き合える場所に身を置き続けてほしいというのが、先生の願いでした。

生れたからには、老いることも、病を患うことも、死ぬことも避けることはできません。どれ程時代が変わろうとも、厳しい命の現実が変わることはありません。

お釈迦様がお説き下さった仏教は、私の命の現実から目をそらすことなく、しっかりと見つめ、その上で、私が歩むべき確かな道をお示し下さる教えです。

お寺は、仏様の教えを通して命の問題と向き合うことのできる、いわば命の学校です。どうぞお寺にお参りいただき、共々に教えに耳を傾けましょう。

10月16日~いのちの現実と・・・2025年10月16日【484】

10月1日~がん再発知らされた日から…

 お彼岸を機に朝夕、急に涼しくなってきました。

 さて、九月末に、年に一回の人間ドックに行きました。

 待合室で検診を待っていると、「よお、久しぶり」と男性から声をかけられました。それは、卒業以来会うことがなかった高校の同級生でした。年を重ねていくと、同窓会など定められた日以外で、会う機会があるのは病院なのか…ということを思わされ、互いに苦笑することでした。

 血液検査から始まり、レントゲン、胃の透視検査、CTや超音波検査など、手際よく検査は進められます。そして最後に医師の検査結果を伺う時間がやってきます。

 今年はどうだろうか。がんなどの大きな病気になっていないだろうか。そのような不安が頭の中をよぎり、以前読んだ島根県の成福寺ご住職・故本多昭人先生の著書『ふたたび出会う世界があるから』(本願寺出版社)にある言葉を思い出しました。

 本多先生は、担当の医師からがんの転移があり、手術は不可能で、抗がん剤治療を告げられたとき、「私はただ呆然とするばかりでした」とその時の心境をおっしゃっています。

 そして、「仏教では、『生死一如』すなわち、『死は生とともに、今ここにある』と説きます。世の中は無常であり、皆が死と背中合わせの今を生きています。なのに、『死ぬのはまだまだ先のこと』と、漫然と構えている自分にそのとき、気づいたのでした」と述べられ、「がんの再発を知らされたその日から、ひと息ひと息のいのちと向き合う日々が始まりました。それはそのまま、いのちの極みにある私を今すぐお救いくださる、阿弥陀さまの尊いはたらきに気づかせていただく日々でもあります」とおっしゃっています。

 検査の結果は大丈夫とのことでしたが、本多先生の御身をかけたご法話を、あらためてお聴聞させて頂きました。ひと息、ひと息の毎日を、お念仏とともに大切に過ごさせていただきます。

10月1日~がん再発知らされた日から…2025年10月01日【483】

1  |  2  |  3  |  4  |  5    »    [161]

- 管理用 -

最近の記事

月別記事