こころの電話

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2月1日~張りすぎても、緩すぎても…

 真冬のあたたかで、ありがたい日光は「愛日」と言います。

 さて、日本は一気に国政選挙に動き出し、自民党と維新の連立に対する、立憲民主党と公明党からなる新党の党名が「中道改革連合」となりました。野田佳彦代表は、この「中道」の意味を「右にも左にも傾かず、熟議を通して解を見出していくという基本的な姿勢」と話しましたが、この「中道」という言葉は元々仏教で大切にされてきました。

 その教えを伝える逸話が今に残ります。

 お金持ちの家に生まれたソーナは、あるときお釈迦さまの説法を聞いて深く感動し、出家を願い出ました。

 仏弟子になったソーナは厳しい修行に専念し、それは足の皮が破れ、血が飛び散るほど激しいもので、ソーナは弟子の中でも自分ほど熱心に修行するものはいないだろうと自信を持っていました。

 しかし、いくら厳しい修行をしても煩悩を断ち切ることはできず、悟りを得ることができないソーナは落胆していました。

 そのソーナに対し、ソーナが出家する前に楽器の演奏が得意だったことを知っていたお釈迦さまは、琴のたとえをもって語りかけます。

 弦楽器の琴は、弦を強く張りすぎると不快な音を出しついにはちぎれます。緩すぎると心地よい音は出ません。弦がちょうどよい張り具合、バランスのとれているときに、よい音が出ます。

 仏道修行も同様で、張り切って激しすぎても、逆に怠けて弛んでいても進歩はなく、安らぎの境地は得られない。極端を離れたバランスのよい修行が大切であることをお釈迦さまは諭されたのです。

 この中道の教えは私たちの日常生活でも学ぶべきことです。

 一生懸命はよいことですが、張り切りすぎると周囲が見えなくなったり、思わぬところにひずみがでます。弛んでばかりでは、心は正しい方向に向きません。

 選挙投票はおのおのの考えとして、この中道の教えに、自らの日々の生き方を顧みてはいかがでしょう。

2月1日~張りすぎても、緩すぎても…2026年02月01日【491】

1月16日~平常心とは・・・

冷たい風が、身にしみる季節です。

さて、野球選手として有名な「イチロー」こと、鈴木一郎さんが、近年、野球の普及活動のために、若い世代との交流を積極的にされています。その活動の一つとして注目されているのが、松井秀喜選手や松坂大輔選手などのそうそうたるメンバーを率いて行われる、女子高校生選抜チームとの交流試合です。

私は以前、その試合に関連する番組を見たことがありますが、その中で、イチローさんが高校生のために設けた質疑応答の時間があり、一人の生徒が質問をしていました。

「私はピンチやチャンスのとき、気持ちがあたふたしてしまいます。イチローさんはそのような場面で何を考えていますか。」
それに対して、イチローさんはこのように答えました。
「平常心を保とうとすることは無理なこと。保ちたいのは分かるけど、無理です。」

平常心とは一般に、どのような場面に出くわそうとも、いつもとかわらない平穏な心で対処するという意味で使われますが、イチローさんのような数々の記録を打ち立てた野球史に輝く名選手でも、ピンチやチャンスの時に、その平常心を保つことは無理と、はっきりとおっしゃることに驚きました。

元来、この平常心とは禅宗の言葉で、日常のありのままの心そのままが仏の悟りを目指す道である、ということで、「仏道をならうというは 自己をならうなり」といわれるように、それは自己の体と心の有り様を深く見つめていくことであります。
つまり、仏の悟りを目指す道とは、教えや知識の習得のみならず、欲望や自己中心的な心に振り回される自分に目覚めることが、何よりも大切だということです。

顧みますと、イチローさんが打ち立てた数々の偉業は、徹底した自己管理とその継続力の結晶といわれます。
もしかすると、野球の技術向上や研究と同時に、たゆまない努力の中で、普段より、自らの心の有り様を冷静に見つめる目までも養っておられたのかもしれません。

質問をした女性生徒のみならず、私たちはさまざまな場面で、緊張したり、焦ったり、不安を抱えることは多くあります。その心を抑え込みたい気持ちが起こることはやむを得ないかもしれませんが、常々、それらの心が何を原因にして生じるのかということを、深く見つめることも大切なことです。

イチローさんの言葉に、平常心の大切さを学びました。

1月16日~平常心とは・・・2026年01月16日【490】

1月1日~道は 光によって 開かれる

 二〇二六年、令和八年、明けましておめでとうございます。本年も「覺照寺こころの電話」をよろしくお願いいたします。

 さて、昨年末、最近よくお寺にお聴聞に来られるようになった高齢の女性が会話の中で、「お寺では、いのちの行く末はお浄土と言われますけど、誰も行ったこともないし、本当にあ
るのか分からないですものねぇ」とおっしゃいました。

 確かに、仏教・浄土真宗では、今生の命が尽きれば阿弥陀如来のお浄土という世界に往き生まれると説かれますが、もしも仏教が、そのことだけを説くのであれば、仏教も、浄土真宗もとうに衰退していただろうと思います。

 このお正月に、友人の僧侶から送られてきた新聞に、フランスの哲学者・ジャン=ジャック・ルソーの言葉がありました。

 「十歳にしては菓子に動かされ、二十歳にしては恋人に、三十歳にして快楽に、四十歳にしては野心に、五十歳にして貪欲に動かされる。いつになったら人間は、ただ叡智のみを追って進むようになるのであろうか」

 恥ずかしながら、まことに私の人生を言い当てた言葉だと思うのですが、一方で、私はお念仏にご縁をいただいており、事あるごとにそのみ教えをお聴聞する機会に恵まれました。

 ルソーの言うとおり、欲に駆られた人生ではあるのですが、一方で、お念仏をいただく日暮らし、み教えを聞かせていただく日暮らしは、欲におぼれることや、人の道を大きくはずれることを遠ざけて、人との出会いを大切にし、お陰さまの中で生かされ、心豊かな人生を送らせていただけるものだと感じます。

 道は光によって開かれる。光とはお念仏のみ教えのことです。

 自分のいのちの行末を説くのが仏教でありますが、その行末がお浄土であるとあきらかになったとき、そこから放たれる光によって、私の道・生き方ははっきりと照らされています。

 本年も南無阿弥陀仏のお念仏をいただきつつ、一日一日を大切に過ごして参りましょう。

1月1日~道は 光によって 開かれる2025年12月31日【489】

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