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1月16日~私はいったい何をしたのだろう?
一月十六日は、親鸞聖人の祥月命日である御正忌。京都の本山本願寺には全国から多くのご門徒方がご参詣になりました。
さて昨年末のこと、ふと、私はこの一年にいったい何をしたのだろうと顧みました。
しかし、よく考えてみると、私はこんなことをしたのだと、はっきり言えるものがないことに気づきました。
怠けていたわけでも、遊んでいたわけでもありません。時間に追われながら毎日日々の仕事を勤めてきたつもりです。でも、一年の最後に言えることは、「忙しい一年だった」ということだけなのです。
さらに、恥ずかしいことに、何一つ完璧に出来たものはないのです。
お経も一年間完璧にできたかと言えば、途中で風邪をひいたり喉を痛めたり。ご法話も完璧かと言えば、途中で言葉を忘れたり、相手にうまく伝わらなかったり、表現不足があったり。事務仕事も時間に追われて不備があったり。他人様からの相談にも十分な対応をしてお力になれたかと言えばそうでもありません。
自らの日記でさえ所々書けていませんし、今更その日のことを思い出そうとしても、残念なことにかすかな記憶さえ残っていません。
毎日毎日、自分なりに精いっぱい努めたつもりなのですが、現実にはこのような状態で、そこに残るのは「忙しかった」という言葉だけです。
でも、このような私でも、そのままでいいから自分の出来る範囲で精いっぱい努めなさいと励ましてくださる方がおられます。それなりによく頑張りましたと認めてくださる方がおられます。そして、どれだけ出来なくてもだいじょうぶ、絶対に見捨てませんよと常に呼んでくださる方がおられます。
そのお方は阿弥陀さまという仏さまです。
私は朝夕、その阿弥陀さまに南無阿弥陀仏とお念仏を申し、お参りさせていただくことに幸せを感じます。そして今日も精いっぱい、私なりに努めるばかりであります。
1月16日~私はいったい何をしたのだろう? | 2015年01月17日【232】
平成27年1月1日~夜昼常にあなたを護る。
新年、明けましておめでとうございます。
今年も、覺照寺「心の電話」をよろしくお願いいたします。
さて、新年にあたり、今年もまたお念仏を申し、そのお謂われを聴聞しながら生活したいと思うことですが、お念仏を申す日暮らしの中で得られる利益に、世間が言う余計なことが全く気にならず、災いすることがないという利益があります。
そのことを親鸞聖人は、和讃というお書物で、「南無阿弥陀仏のお念仏を称える人は、あらゆる天の神々が夜昼常に護る」と述べ、「お念仏を称える人には、あらゆる悪い鬼を近づけることはない」とも述べられ、さらに「お念仏を称える人を、すべての悪い鬼や神は、皆ことごとく恐れおののくであろう」と述べられています。
そして、「お念仏を喜ぶ人を、すべてのあらゆる仏さまが常に包み込み、よろこんで護ってくださる」と、念仏者の利益を讃えられています。
私たちの毎日の生活は、まことに不安定なもので、何があるか、何が起こるか分かりません。
すべての物事が、自分の思うとおりにすべてが進めばよいのですがそうはいきませんし、自分の思いとは逆の方へ向かうことがないともいえません。
そのようなときに、何か自分以外の別の者がよくない働きをしているのではと思いがちで、世間ではそれをタタリとか悪霊とか言います。
親鸞さまは、お念仏を申す者は、物事が順調なときはもとより、順調でないときも、そのような災いがまったく障ることがなく、どのような状況にあろうとも、心を落ち着かせて、感謝の思いで一日一日大切に生活できることをお示しくださいました。
今年も人それぞれ、いろんな出来事があることでしょう。毎日お念仏を申しながら、明るく力強く、心豊かな日暮らしをさせていただきましょう。
平成27年1月1日~夜昼常にあなたを護る。 | 2015年01月02日【231】
12月16日~娑婆を幸せに生きるために…。
早いもので今年もあと半年となりました。
さて、今年も様々な出来事や事件がありました。個人的にもいいことがあった人、悪いことがあった人、これといって変化がなかった人、それぞれでしょう。 仏教ではこの世の中のことを娑婆といい、意味は忍土。様々な悩みや苦しみ、困難に耐え忍んでいかねばならない世界であると説かれます。
巷では、様々な占いやお祓いや祈祷などがありますが、できるなら悩んだり苦しむような困難に出遭いたくないという、人間の願いの表れでしょう。
しかし残念ながら、どのように祈っても、どんなに占ってもらっても、この世に生まれて生きている限りは悩みや苦しみとであわない人はいません。
では、この娑婆を生きていくために、少しでも幸せな生き方をするためにどうしたらよいのでしょうか。
例えば、プロ野球ではよくピッチャーが話題になりますが、私はキャッチャーも同様にすごいなと常々思います。
一四~五〇キロという高速球、しかも変化する球をミット一つで受け止める技術を持っているからです。
取り損ねようものなら大けがをしてしまいますし、チームも負けてしまいますが、常にどのような球種の球かを認識し、自分の手中に受け止める技術は大したものです。
つまり、自らに起こる悩みや苦しみを正しく知ることが出来るなら、それに惑わされることのない正しい受け止め方が出来るようになるのです。
それには野球選手と一緒で鍛錬が必要です。浄土真宗ではその鍛錬を仏法を聞くこと、聴聞といいます。時間さえ作れば誰にでも出来る鍛錬です。
お釈迦さまは娑婆での人生は苦であると言われました。その苦しみを乗り越え、苦しみを豊かさと実りに転じていくことのできる道を仏道として示されました。
共々にその道を聞き開いていきましょう。
12月16日~娑婆を幸せに生きるために…。 | 2014年12月16日【230】