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5月1日~どのようなときに子どもを叱る?
早いもので、入園式や入学式、あるいは入社式より一ヵ月が過ぎました。
お寺の幼稚園や保育園でも、先生方は、慣れない新入園児のお世話に一生懸命です。
その先生方から、研修会の時などに、「どのようなときに子どもたちを叱ったらよいのですか」という質問を受けます。
その問いに私は、「その子ども自身に危険が及ぶようなことをしているとき、分かっているのにわざと皆の和合を乱すようなとき、してはならない反社会的な行為をしているときの三つを基本としましょう」と答えます。
一番目は、例えば高い危険なところによじ登ったり、石などを投げて周囲の子どもたちが怪我をするような危険があるときです。
二番目は、園内で皆がそろって一つのことをやらなければならないときに、それが理解できていながら、わざとその和合を乱すようなことをしたとき。
三番目は、例えば一般車道で友だちを押したり、バスや電車のイス席に靴のままで立ってはしゃいだりというようなときです。
そして、叱り方も三歳、四歳、五歳の発達段階に応じて本人が理解できるように。また子どもに対する目線や声の大小、言葉の使い方や強弱も、その子どもの状況に応じてと、一口に子どもを叱ると言っても様々なことが求められます。
先生方にとって大変難しいことですが、私は常々、このことを阿弥陀さまのお心に学びます。
阿弥陀さまのお慈悲の心は、まさしく私たち一人ひとりの性格や環境に応じて縦横無尽にはたらいてくださるとお聞かせいただくからです。
私たち一人ひとり、決して捨てられることなく、よりよい人生を送ることが出来るように常に見守り、励まし、時に叱ってくださるのが阿弥陀という仏さまであります。
その阿弥陀さまのお心とお姿に学び、毎日共に手を合わせ、子どもたちも先生も、共に成長するすばらしさ尊さが、お寺の園にはあります。
5月1日~どのようなときに子どもを叱る? | 2015年04月30日【239】
4月16日~お育ていただいたお礼に…。
今年の春は雨と曇りの日が多く、清々しい春の風に吹かれることが少ないようです。
さて、学校や会社では三月に別れがあり、そして今月には新たな年度がスタートしましたが、数年前、お寺の幼稚園でこのようなことがありました。
卒園式が終わり、幼稚園の先生方が新入生を迎える準備をしていたら、ある卒園児が家族で幼稚園を再び訪れました。
その卒園児は、卒園を機に、お父さんのお仕事の都合で、別の町の小学校に進学する子どもでした。
なぜ、卒園後、再び幼稚園を訪れたのか。その理由を一緒に来られたおばあちゃんが言いました。
「先生、お陰さまでこの子はこの幼稚園で三年間、お育てを受けました。そして卒園を機にこの町ともお別れです。ですから、幼稚園のホールの仏さまに家族皆でお育てをいただいた感謝とお別れのお参りに参りました」
そして、家族全員で幼稚園のホールの中心にいらっしゃる阿弥陀さまにお参りをされたのです。
元本願寺新報編集長の三上章道先生は、著書『合掌ができる社会へ』(本願寺出版社)で、「合掌することは宗教行為の基本であるとともに、自己を見つめて他人に思いを至らす行為であります。また、感謝の気持ちを表すときにも合掌します」と述べておられますが、まさしくその大切さを教えられた出来事でした。
人間が成長し生活していく社会では、法律や道徳は必要です。しかし、さらに大切なのは宗教であり信仰です。なぜなら、法律や道徳は外側から人を縛るものですが、宗教は信仰によって内側から人を育てるものだからです。
もちろんその宗教がまこと真実の教えでなければなりませんが、その基本は先ほどの三上先生の言葉の中にありましょう。
きっと、この園児の心には、その日のことが一生、尊く素晴らしい思い出として残ることでありましょう。
4月16日~お育ていただいたお礼に…。 | 2015年04月16日【238】
4月1日~死んでからのことでなく…。
三月末に満開になったさくらが、風に花びらを散らしています。
さて、四月八日はお釈迦様の誕生日で、多くのお寺では誕生仏に甘茶をかけてお祝をいします。
お釈迦様はお生まれになると、すぐに七歩歩いたと伝えられます。いくらお釈迦様でも生まれてすぐの赤ちゃんが歩くことはできないので、きっと、その偉大さと教えの尊さを讃えた伝承でしょうが、七歩という数に意味があります。
六つの迷いの世界である六道を越えるということです。
つまり、憎しみ争いの世界である地獄、貪りにあえぎ苦しむ餓鬼、感謝と恥を知らない畜生、疑念と驕りより争いの絶えない修羅、老病死に苦しむ人間、欲多きがゆえに苦しみも多い天上の、六つの世界です。
これは古代インドにおいて、仏教が生まれる前にあった考え方で、お釈迦様が七歩歩いたということは、仏の教えを聞くものは、この六つの迷いの世界を越えることを示しています。
この六道の世界で教えられることは、迷いの心と苦しみの結果が必ずセットになっていることです。
怨み憎しみや疑いや驕る心は争いを生みます。貪りの心は飢えと渇きを生みます。真実に暗いものは老病死に苦しみます。欲に溺れるものが受ける苦しみは倍増します。
これらはすべて私が死んでからのことでなく、私の心の内にある迷いの心に気づかないところから、いつでもどこでも始まる苦しみ世界です。
「そんな簡単な理屈は分かっている」という方がおられるかもしれません。分かっているならこの世に争いは起きません。人生に悩む人もいません。その簡単な理屈が自分のこととして正しく受け止められないところに問題があるのです。
お釈迦さまは、迷いの世界を必ず越えられる、苦しみを解決できると言われました。
それは仏さまの教えを聞くことから始まります。
4月1日~死んでからのことでなく…。 | 2015年04月01日【237】