こころの電話

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3月16日~新たな出会いが必ず生まれる

 お彼岸が近づき、やっと春めいてきました。

 さて、今月十一日は、東日本大震災より四年目となりました。

 震災で亡くなった方は一万五八九一人、行方不明者は二五八四人、現在避難生活されている方は二十二万九〇〇〇人。被災地では、今現在も見つからないご家族を探しておられると伺います。

 お寺でも追悼のお勤めをさせていただきました。被災された皆様方に、あらためて心よりお見舞い申し上げます。

 仏教で「無常」と表現されるように、私たちのいのちの世界は、いついかなる時に何が起こるかわかりません。

 しかし同時に、仏様に手を合わす私たちには、また会える世界があるともお聞かせいただきます。

 私にとって「大切な人の死」というものが、喪失では終わらないということです。

 いのちは無常にて悲しくも、私たちは人間同士の関係をいつかは終えていかねばなりません。しかし新たなる出会いが、新たなる関係が必ず生まれる、まなざしに照らされる世界があるということです。

 私自身も既に、幼なじみや親しい友人を病気で亡くしました。

 お仕事をしていても、車の運転をしていても、ご飯を食べていても、ふっと思い出し、彼らは既に自分と同じ世界にはいないのだなと、誠に寂しい思いに駆られます。

 しかし、仏さまに手を合わすときはもとより、毎日の日暮らしの中で、彼らが見ていてくれている、私の人生を支えてくれている、生かしてくれているというはたらきを感じるのです。

 共にこの娑婆世界で生き、直接話しているときは感じなかったけれど、お別れをして初めて、その友人たちと新たな出会い直しをしたという実感があるのです。ありがたいことです。

 仏さまといえば、私たちはすぐにあの仏像の姿を連想してしまうのですが、実はそのはたらきそのものをいうのかもしれません。

3月16日~新たな出会いが必ず生まれる2015年03月16日【236】

3月1日~私は何しにここに来たの?

 三月は別れの季節。卒業や転動、引っ越し、そして年度末でそれぞれに慌ただしい季節です。

 さて、年を重ねてくると、何かをするために今、この部屋に来たのだけれど、何をしに来たのか、思い出せないというようなことはないでしょうか。

 私自身も、「まだまだ若い」と言われる世代ですが、それでも時折このようなことを経験します。

 そんな時、自分自身に対して大変もどかしく、またとても情けない思いに駆られます。自らの行動なのに、その目的が自分で分からないからです。こんな残念なことはありません。

 でも同様のことが、自分の人生にも言えるのではないかと思います。

 この世に生を受けて長い間生きては来たものの、自分は何を目的に生きてきたのか、そして自分のいのちはどこに向かって生きているのかという問題です。

 人は誰しも必ず死を迎えます。しかもそれはいついかなる時か誰も分かりません。

 その時に、自分の生きてきた人生が確かな目標を持ち、自分のいのちの行く末がはっきりわかっている人は、充実感と安心に包まれた最後を迎えることができるでしょう。

 あなたの人生の目的はお金や財産でしょうか。地位や名誉でしょうか。家族を養い子どもを育てることでしょうか。優雅で快適な生活、あるいは健康を保つことが目的でしょうか。

 しかしお金や財産、地位や名誉、家族と必ず別れ、最後には自分の生命も失わねばならないのが、私たちの厳しい現実でもあります。

 そして、今の今、何かをしにここに来たのに、それが分からなくなる私たちですから、時にはそのことをゆっくり考えてみるのも大切です。

 お彼岸はお浄土に参られた方々を偲ぶとともに、仏さまのみ教えを聞く大切な期間です。

日頃の忙しい手を少し休めて、自分の人生の目的といのちの行く末を、仏さまに問い尋ねてはいかがでしょう。どうぞ、近くのお寺にご参詣ください。

3月1日~私は何しにここに来たの?2015年03月01日【235】

2月16日~暖かな光とぬくもりを待って…。

 暦の上では立春は過ぎましたが、外はまだまだ冷たい風が吹いています。

 東北地方や北海道では記録的な積雪と暴風で、心よりお見舞い申し上げます。

 立春とは一年間を二十四に分けた二十四節気の第一に当たり、この立春から立夏までのことを春と呼びます。ですから立春とは、春が始まった第一日目ということになります。

 節分にはこの立春、立夏、立秋、立冬とありますが、マスコミなどでひときわ立春が大きく扱われがちなのは、やはり暖かな春を待ち望む人々の心の表れでありましょう。

 人間の感覚は不思議なもので、厳しくつらい期間、あるいは堪え忍ぶ期間は、同じ時間でも長く感じるものです。

 雪が多い北国では毎日の雪かきの作業は危険が伴いご苦労も多いことでしょう。どんよりとした雲が長く立ちこめる地域では光がとぼしく、人の心までも滅入ってしまうものです。

 春になると草木に宿る芽がそのときを待ち焦がれいっせいに芽吹くように、人が暖かな風と光を待ち焦がれるのは当然のことかもしれません。

 人間は、冷たい世界、暗い世界には耐えられないものです。ぬくもりのない世界、光のない世界では誰しも生きてはいけないのです。

 そのことは人間の体だけではなく心も同様でありましょう。

 自分自身の心が固い殻で包まれて、光が閉ざされ、優しさや思いやり、ぬくもりのない生活をしていては、まことの幸せを感じることは少ないはずです。

 自分自身の心に燦々と光が差し込み、暖かでさわやかな風が吹き込んでこそ、人は心を思いきり開いて力強く生きていくことができます。

 その光こそ仏さまの智慧の光です。その暖かでさわやかな春風こそ如来様の慈悲の風です。

 暖かな光に照らされぬくもりにあふれた日暮らしは、ひとえに仏法聴聞から始まります。

2月16日~暖かな光とぬくもりを待って…。2015年02月17日【234】

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