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9月1日~ランニングと人生は…。

 九月に入り、朝夕涼しくなってきました。

 さて私事ですが、健康のために、早朝近くの公園でランニングをしていますが、毎日走っているといろんなことを感じます。

 夏の日差しが厳しい日や向かい風のとき、あるいは体調の優れない日もありますし、逆に涼しい風が吹く穏やかな日や後ろから体を風が押してくれるようなとき、そして体調がとても良い日もあります。

 若いランナーがさっそうと私の横を追い抜いていったときは、何くそ負けじと付いていきますが、結局はついて行けず年齢と体力の衰えを痛感します。

 女性とすれ違うようなときは、なぜかその時だけ、疲れた体を奮い立たせて颯爽と走ります。いくつになっても、よく見られたいという煩悩は消えません。

 また、高齢の方が毎日欠かさず走っておられる姿に、無言の叱咤激励を受けることもあります。 

 一口にランニングと言っても毎日いろんなことがありますし、その時折々の天候や体調に応じていろんな走り方があります。そして人生も同様のことが言えるのかもしれません。

 気温の高い日や向かい風のとき、体調の思わしくない日に、無理な走り方をするとたちまちバテてしまいます。逆に涼しい日や追い風のとき、体調の良い日は、いつもより少しスピードを上げて頑張ることができます。

 同様に、日々の生活の中で周囲の状況が良くないとき、また自分自身の状況が思わしくないときに、その状況を好転させるための努力は必要ですが、無理をするとさらに状況が悪くなることもあります。

 逆に周囲も自分自身もすべてが順調なときは、さらに頑張ることも良いでしょう。しかし調子に乗ると取り返しの付かないことになるかもしれません。

 さらに若いランナーに過剰な負けん気を出したり、まして異性に気を取られては、まともなランニングはできやしません。

 常に、周囲の環境と、自分自身の体調を確認しつつ、また自分自身のペースを見失うことなく走ることが大切です。これを仏教では平常心というのでしょう。

9月1日~ランニングと人生は…。2014年09月01日【223】

8月16日~お盆の心世界へ馳せて

 今年もお盆の法要が終わりました。

 お寺でも初盆の合同法要、あるいは自宅での法要にたくさんの方々がお参りいただきました。

 お盆は正式には「盂蘭盆会」と言い、お釈迦様のお弟子・目連尊者のお母さんが目連尊者を大切に育てるがあまりに、その自らの業によって、貪りのとがを表す餓鬼の世界に堕ちました。

 そしてわが母を助けるために、目連尊者はお釈迦様の御許に走り、その教えによってお母さんが救われたという故事による行事です.

お盆はこの故事を通して、人間皆一人ひとり、親をはじめ多くのお育てをいただいていること。そしてそのご恩を感じたならば、周囲の方々に施しをすることの大切さを説いています。

 このお盆は、日本の一夏の仏教行事ではありますが、そこに説かれていることは、日本のみならず今の国際社会においても大切なことを諭しています。

 現在、世界の至る所で、武力や暴力による争いが起きています。また人やお金や物が自由に飛び交うグローバル化した経済活動は多くのいのちを傷つけ、将来的に地球の存亡に関わる問題をもはらんでいます。

 多くの武力紛争はもとより、ルールなき経済活動は世界の悲惨な現状や苦しみ、悲しみを生み出しており、それは決して私たちの生活とは無関係ではありません。

 お釈迦さまの教えは、自らのいのちが周囲の多くのいのちによって支えられ、育まれ、生かされていることへの気づきをもたらします。

 そしてその自覚は、自分だけよければいいという自己中心的で恐ろしい欲望を自ら抑えること、合わせて周囲のすべてのものへの思いやりと施しを勧めるのです。

 思いやりとは、同じいのちを恵まれたものとして、共に喜び共に悲しむ立場に立たせていただくことです。

 近くは身近な家族から、遠くは世界まで、合掌の心で思いをはせて見るのも大切なことです。

8月16日~お盆の心世界へ馳せて2014年08月15日【222】

8月1日~葬儀はなんのために…。

 毎日、うだるような暑さが続いています。

 さて先日、関東でお身内を亡くされた方が、その方のお骨を抱えて、「法名をつけてください」とお寺に来られました。

 事情を聞くと、葬儀を勤めず直接火葬をして故郷のお墓に納骨するために帰ってこられたとのことでした。

 都会では、葬儀を行わず直接火葬場へ向かう直葬が増えつつあると聞きますが、その背景には不況や孤独、いのちの軽視、人間関係の希薄化、儀礼の省略化など、様々な問題があるようです。

 葬儀は儀式ですから、元来それぞれの宗教によって、一定の形式に基づいて行われてきましたが、そこにはその宗教が説く大切な意味があります。

 また人間の死は、生物的な厳然たる事実ですから、葬儀は、社会的にけじめをつけるという意味もあります。

 人がこの世に誕生し、一生を全うすることは大変なことです。そこには様々な人とのご縁があり、その中で互いに支え支えられて人生を送ります。

 その人間の一生最後にあって、たとえわずかでも、人が集まることもなく、ささやかでも、お別れの儀式が行われないことは、大変寂しい思いがします。

 さらに、葬儀は亡くなられた方のためだけに行うものではありません。

 葬儀は、亡くなられた方の生前のご苦労や遺徳を偲び、ご縁をいただいた方が別れを惜しむとともに、参列者自身がいのちのつながりや無常の理に気づかされ、人生の有り様を深く考える貴重な場です。

 人間が人間そのものを深く見つめる場、人間が最も人間らしくなる場といっても過言ではありません。

 ただ単に、仕事上のつきあいや、華美なセレモニーに立場上の人が集まるだけでは、葬儀の大切な意味が薄れていくことでしょう。

 お寺に相談に来られたご遺族は、葬儀の意味をよく理解され、後日お寺の本堂で葬儀をお勤めになりました。

 今年もお盆が参りました。あらためて葬儀の意味を確かめることも大切なことでありましょう。

8月1日~葬儀はなんのために…。2014年08月01日【221】

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