こころの電話

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12月1日~後味のいいお店

 北風の冷たさが、日々はっきりと感じられるようになりました。

 さて先日、京都在住のお坊さんと一緒に会食をしました。

 そのお坊さんが、京都の行きつけの料理屋のご主人と、最近話題になるのが、「この頃は後味のいいお店が少なくなった」ということだそうです。

 「後味」というと、「後味が悪い」とか、「後味のよくない夢」とかいって、何かが終わった後に残るあまりよくない感じとして使われることが多いのですが、「後味のいいお店」とはどういうことでしょうか。

 本来、飲食店には欠かせない三つの味があるそうです。まず「前味」。これはお客さんがお店に来て食事を口にするまでの間のことで、お店の内外が飲食店としてきれいに清掃されているか、また時期に合った雰囲気を醸し出すための工夫がされているか、ということです。

 次に「中味」です。出されるお料理が季節の旬を捉えた内容で、器などもお料理や季節とマッチングしているかどうか。食材の偽装などもってのほかです。

 最後に「後味」です。出されたお料理をはじめとするおもてなしが、満足できる価格であったかどうか。お帰りになるお客様を心地よくお見送りし、お客様が「また来たい」と思うような心持ちになって下さったかどうか、ということです。

 若い従業員が、お客様の顔も見ることもなく手作業をしながら、「いらっしゃいませ」、「またどうぞ」と機械的に、声高らかに言う店が時折ありますが、まさしく後味悪い風景でありましょう。

 でも、これは決して飲食店だけのことでなく、私たちそれぞれの日常につながることでありましょう。

 報恩講の季節となりました。お寺にとって阿弥陀如来さまのお目当てはご門徒一人ひとりであります。お寺では、ご門徒一人ひとりが、お聴聞に来てよかったな。また足を運ばなくては…と思って下さるよう努めたいと思います。

 覺照寺の法要は十二月十一日、十二日、十三日の三日間。どうぞ、お寺にお参り下さい。お待ちしております。

12月1日~後味のいいお店2013年12月01日【205】

11月16日~自分以外は皆先生

 十一月も半ば、急に寒さが増してきました。

 さて、国民的代表作家といわれ、親鸞さまの小説も書かれた吉川英治さんは、「自分以外皆わが師なり」とよくおっしゃったそうです。

 既に故人となりましたが、私が昔、ご縁をいただいていた先輩僧侶も、「出合う人、皆先生」とおっしゃっていました。

 いずれの言葉も、「生涯で出合う人、自分の周囲のすべては、自分を育ててくれる先生である」ということですが、普段の生活の中で、いつも周囲の人や事柄に対してそのような思いでいられるかというと、なかなか難しいものです。

 私たちは日々、仕事場や地域、あるいは学校で、様々な人や事柄と出会いながら生活をするわけですが、時には、自分のことを低く評価する相手もいますし、悪口を言う人もいます。また、なかなか意見が合わない人もいますし、自分の意に沿わない状況が起こることもしばしばです。

 そういう人や事柄、あるいは出来事に対して、「あなたは私の先生だ」と思うことはなかなかできることではありません。

 しかし、この二つの言葉を深く味わうとき、自分中心の世界ではない、広い心や視野を持つことの大切さ、そのことを常に実感できる教えを持つことが大切なように思います。

 顧みれば、人はこの世に生まれて、親から育てられ、多くの人や自然、動物や植物、それぞれの環境から影響を受けて、心も体も育てられていきます。

 自分の考えだと思っていることも、実はすべてこれらすべての影響の集大成であると言っても過言ではないでしょう。

 もしも今、少々の逆境を超えることができる自分があるとするならば、それは過去に流した涙や汗の結果かも知れません。

 人はありとあらゆる縁起の中で、生かされ育てられているという思いにたてたとき、はじめて「自分以外皆わが師なり」、「出合う人、皆先生」という境地になるのでありましょう。

11月16日~自分以外は皆先生2013年11月17日【204】

11月1日~帰る家があるということ

 朝夕の寒さが厳しくなってきました。

 さて、今年は台風接近が多く、伊豆大島では、台風二十六号によって多くの方々が被災されました。被害に遭われた方々に心よりお見舞い申し上げます。

 さらに台風二十七号接近では、多くのお年寄りや障害者が一時的に島の外に避難する様子がニュースで流れていましたが、足下が悪い中、移動するお年寄りを見て、何もお手伝いができないことを誠に心苦しく思うことでした。

 台風が遠ざかり、避難者が島に帰ってくる様子が報道されていましたが、お年寄り方が口々に、「やっぱり家が一番です」、「自宅に戻れて本当に安心しました」、「家に帰れるだけで十分です」と、おっしゃっていました。

 それを聞きながら、普段は当たり前すぎて感じることはないのですが、帰ることのできる家があるということの有り難さを、私は思うことでした。

 仕事や趣味や地域の行事、子どもは学校へと、家を出るのは人それぞれですが、みんな安心して外出ができるのは、ひとえに帰る家があり、帰りを待つ人がいるからです。

 もし、今日帰る家がないとなれば、その不安は如何ばかりでありましょうか。

 それは、私たちの人生とお浄土の世界に喩えられます。

 私たちの人生は、老病死を抱えた不安の多いものです。また現実の生活は自分の思うようにことは進まず、悩みや苦しみも多いものです。

 しかし、いついかなる時にも参れる世界がある。待ってくれる方がいる。そしてそれは遠くにあるのではなく、いつでもどこでも、私を底辺から支え導いてくださっている方があり、世界があると受け止めることができたときに、人は大きな安心に包まれるもので、それが阿弥陀さまの淨土の世界とお聞きします。

 この度の災害で現実に身近な人を亡くされ、家を失われた方もおられます。できるだけの支援とともに、当たり前ではない娑婆に住む自覚を深めたいものです。

11月1日~帰る家があるということ2013年11月01日【203】

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