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8月1日~葬儀はなんのために…。
毎日、うだるような暑さが続いています。
さて先日、関東でお身内を亡くされた方が、その方のお骨を抱えて、「法名をつけてください」とお寺に来られました。
事情を聞くと、葬儀を勤めず直接火葬をして故郷のお墓に納骨するために帰ってこられたとのことでした。
都会では、葬儀を行わず直接火葬場へ向かう直葬が増えつつあると聞きますが、その背景には不況や孤独、いのちの軽視、人間関係の希薄化、儀礼の省略化など、様々な問題があるようです。
葬儀は儀式ですから、元来それぞれの宗教によって、一定の形式に基づいて行われてきましたが、そこにはその宗教が説く大切な意味があります。
また人間の死は、生物的な厳然たる事実ですから、葬儀は、社会的にけじめをつけるという意味もあります。
人がこの世に誕生し、一生を全うすることは大変なことです。そこには様々な人とのご縁があり、その中で互いに支え支えられて人生を送ります。
その人間の一生最後にあって、たとえわずかでも、人が集まることもなく、ささやかでも、お別れの儀式が行われないことは、大変寂しい思いがします。
さらに、葬儀は亡くなられた方のためだけに行うものではありません。
葬儀は、亡くなられた方の生前のご苦労や遺徳を偲び、ご縁をいただいた方が別れを惜しむとともに、参列者自身がいのちのつながりや無常の理に気づかされ、人生の有り様を深く考える貴重な場です。
人間が人間そのものを深く見つめる場、人間が最も人間らしくなる場といっても過言ではありません。
ただ単に、仕事上のつきあいや、華美なセレモニーに立場上の人が集まるだけでは、葬儀の大切な意味が薄れていくことでしょう。
お寺に相談に来られたご遺族は、葬儀の意味をよく理解され、後日お寺の本堂で葬儀をお勤めになりました。
今年もお盆が参りました。あらためて葬儀の意味を確かめることも大切なことでありましょう。
8月1日~葬儀はなんのために…。 | 2014年08月01日【221】
7月16日~もののあはれ感じる中に…
猛暑で、一回のお勤めで衣の下は汗だくになってしまいます。
さて、前回のテレホン法話で、宮崎の椎葉村に残る民謡・稗搗節を紹介し、生活の中にある道具からもお念仏のみ教えを味わうことのできる心の豊かさをお伝えしましたが、聞いてくださった女性より、お電話をいただきました。
その方は、「私たちは毎日、忙しすぎますね。朝から晩まで動き通し。またその元気で忙しいことが美徳のように思うような所もあって…」とおっしゃって、私も同調することでありました。
季節は夏。少し足を止めて周りを見わたせば、夏を感じるものはたくさんあります。
アサガオが咲く季節です。セミが勢いよく鳴き、昆虫のかげろうも姿を見せるでしょう。
アサガオは、早朝に咲いて昼頃にはしおれてしまいます。セミもカゲロウも短命で有名な虫たちです。
そして、アサガオやセミ、カゲロウたちの命短な姿は、私たちに人生のはかなさを教えてくれます。
しかし短命だから、はかないからと言って、それらが人間に嫌われ避けられてきたかと言えばそうではありません。
アサガオが鮮やかな色を放って精いっぱい咲く姿の中に、ことばでは表すことのできない美しさ、すばらしさを人は感じます。
セミの寿命は実際には一ヵ月ほどと言われますが、それでも限りある命を精いっぱい鳴き続ける姿に、もののあはれを感じ、多くの俳人がそれを詩に詠みました。カゲロウも同様です。
大切なことは、一輪の花を、あるいは小さな虫たちの姿を見て、美しさやすばらしさ、あるいは愛でる心や潤いを得ることのできる豊かな心を養うことです。
そして、そのことを通して、自分のいのちや人生を顧みて、同じ限られた命をどのように生きるのか、自分の人生はどうあるべきなのか、考えるよすがとすることがさらに大切なことであります。
忙しい中にも、僅かな時間を取って、夏を味わう時間を持ちましょう。
7月16日~もののあはれ感じる中に… | 2014年07月16日【220】
7月1日~落としゃせぬぞぇ 火の中に…
関東地方では、ゲリラ豪雨や雹が降り、さらに突風も吹いて、大きな被害にならないことを願います。
さて、六月中旬、宮崎において九州のお寺の代表者による研修会があり、出席しました。
二日目の朝、お勤めの後、宮崎の椎葉村にあるお寺のご住職の法話がありました。
椎葉村は宮崎県の北西部にある人口約二九〇〇人の村で、交通の便が大変悪く、急激に過疎化が進む村で、その地域に西本願寺のお寺が六カ寺あるそうです。
そのご住職は、地域の様子や過疎化が進む中でお寺を護持することの大変さをお話しくださいましたが、最後に、その地域に残る民謡・稗搗節を実際に歌って紹介くださいました。
といっても、ただの稗搗節ではありません。お念仏のみ教えの味わいの替え歌です。
おどま 自在鉤 仏でござるよ~
落としゃせぬぞえ 火の中によ
こんなご縁がもう一度あればよ~
弥陀のおかげか ありがたいな~
実際にその歌声を聞いていただけないのが残念です。
自在鉤とは、ご承知の通り囲炉裏や竈の上から吊して、鍋や釜を自在に上下させるカギのことですが、それを阿弥陀さまに喩えて、煩悩を持った罪深き私たちを必ず救って、火の燃えたぎる地獄に決して落とすことはないという阿弥陀さまの救いの誓いを詠ったものです。
そして、お念仏のみ教えを聞くご縁を心から喜んで、さらにそのご縁がもう一度あることを心から願って、阿弥陀さまに感謝の心を詠ったものです。
ゆっくりとした時間が流れる中で、生活の中にある道具からもお念仏のみ教えを味わうことのできる心の豊かさと深さを感じます。
毎日齷齪している現代人には味わうことが難しい、お念仏のみ教えに育まれる情緒豊かな感性とも言えましょう。
忙しい中にも、僅かな時間を取って、仏法を味わう時間を持ちましょう。
7月1日~落としゃせぬぞぇ 火の中に… | 2014年06月30日【219】