こころの電話

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8月1日

 今年もお盆が近づいてきました。

 さて、お盆は、正式には盂蘭盆といい、悩み苦しみ多き人間が、仏さまのみ教えによって救われることを意味します。

 先日、大勢の小学生に、そのお盆にちなんで、芥川龍之介の有名な「くもの糸」のお話をしました。ところが、その小学生の大半が「くもの糸」を知らないのです。

 ある日、お釈迦さまが、極楽浄土の美しい池のほとりを歩いておられたとき、ふと、水面から地獄の世界をご覧になられました。地獄の血の池では、生前、さまざまな罪を犯した者たちが、あえぎ苦しみもがいている姿が見えました。

 その中に、カンダタという者がいました。カンダタは、生前人を殺したり、放火をしたりした大罪人でしたが、お釈迦さまがカンダタの生前をふり返ると、たった一つだけ良いことをしていました。

 それは、カンダタが森を歩いていたとき、一匹のくもを見つけ、思わず踏みつぶそうとしましたが、「いや、この小さなくもにもいのちがある。そのいのちをむやみにとるとは、いくら何でもかわいそうだ」と、逃がしてやったのです。

 そのことをちゃんと見ておられたお釈迦さまは、カンダタを極楽へ救おうと思い、池のほとりに巣を作っていた黄金色のくもの糸を一本、血の池に垂らしたのです。

 カンダタは、「しめた」と、くもの糸にしがみつき、すぐさま極楽へと登り始めますが、下の方を見ると、今まで共に血の池にいた罪人たちが次から次に登ってきて、くもの糸が今にも切れそうです。

 カンダタは、「おい、罪人ども、この糸はおれさまのものだ。お前たち誰に許しを得て登ってきた。すぐに降りろ」と叫びました。と同時に糸は切れて、カンダタは皆とともに、また血の池に堕ちてしまったという話です。

 人間のエゴイズムの悲しさを、お釈迦さまの眼をとおして万人に語りかけたすばらしい物語ですが、そのお話を知る子どもたちが、今や世の中から消えつつあります。と同時に、「自分さえよければいい」という利己主義の人間が増え、自分さえよければ人はどうなってもいいという悲しい時代になりました。子や孫たちへ、語り継ぐことの大切さが身にしみます。

8月1日2006年07月31日【29】

7月15日

 今年はなかなか梅雨が明けない上に、毎日、とても暑い日が続いています。

 さて、私事で恐縮ですが、数年前からご門徒のOさんの薦めで、観葉植物の「おもと」を栽培しています。緑色の大きな葉に、白い斑点や縞模様をつける様を楽しむもので、中には大変高価なものもあります。

 私のものには、それほどのはありませんが、しかし、今年、その鉢に大変なことが起きてしまいました。たくさんある鉢の中で、私が一番気に入っていた、しかも、今年もきっといい文様を見せてくれるだろうと期待していた二つの鉢から、どうしたことか新しい芽が出てこないのです。

 こんなことは初めてで、あれこれ考えてみると、私は大変な失敗をしたことに気が付きました。

 それは、「おもと」は、夏に入る前に花を咲かせるのですが、完全に咲く前に花は摘んでしまいます。葉の文様を楽しむ「おもと」ですから、花を咲かせる栄養を葉に行かせるためです。しかし私は、大切な二つの鉢の花を摘むときに、その花の横からわずかに出た新しい芽の先を、傷つけてしまったのでした。傷つけられた芽は決してそれ以上成長することはありません。

 ふり返るとそこには、今年も早くいい文様の葉を出させようとする私の欲がありました。仕事が忙しい中で、花や葉の状態をよく見ることなく手がけてしまった私の粗雑さと焦りがありました。たくさんの鉢の中からこの二つだけはという、偏ったひいき目もありました。数年栽培しているから、これくらい手をかければ充分だろうという、馴れとおごりがありました。

 その結果、大切な芽を摘んでしまったのです。摘んでしまった芽は二度と出ることはありません。

 「おもと」だけではありません。子育て、お仕事、人間関係などいろいろありますが、「大切な芽を摘む」ことはないでしょうか。「大切な芽を摘む」その裏には、早く思い通りにしたいという欲と、忙しさのなかで生じる粗雑さや焦りと、偏ったものの見方と、馴れとおごりがあることを、「おもと」はその身をもって教えてくれました。心したいものです。

7月15日2006年07月16日【28】

7月1日

 梅雨空の隙間をぬってさす日差しは、もう夏色です。

 さて、この梅雨の期間中に、小松美彦さんの『脳死・臓器移植の本当の話』という本を読みました。

1997年6月に国会で可決成立した、「脳死は人の死」と定めた「臓器移植法」の内容や臓器移植の現場の実態を、様々な角度から検証した本です。この本を読んで、私は大変驚くと共に、自らの無知を思い知らされました。

 脳死状態になった女性から子どもが生まれたこと。脳死と判断された人の脳波が蘇ったという事例があること。脳死判定を受けた人に、メスを入れた途端に血圧が急上昇したり、身体が激しく動き、移植医があわてて麻酔を打ったこと。移植推進の医師らが移植現場の実態を隠蔽し、さらに法改正をしようとしていることなど、挙げればきりがありませんが、この本には過去、現在、未来にわたっての、脳死・臓器移植についての様々な疑問点が記されています。

 私自身、脳死を人の死としていいのか、臓器移植を推し進めていいのか、あらためて考えさせられる機会となりました。

 さらに、その本の中で、「私たちは日々の生活の中で、自分自身が何かに対処しているようで、他人の目や心や頭を借りただけになってしまっていることがあるのではないか。自分の目で見て、自分の心で感じて、自分の頭で考えることがなくなってきているのはなかいか」という言葉が、私の心に残りました。

 つまり、毎日のように社会的な事件や問題が起こり、私たちはそれについて様々な感情を抱きますが、それが、本当に自分の目でよく見て、自分の心で感じて、よく考えた果てに抱く感情かどうかということです。

 ともすると、テレビを中心とするマスコミの情報をそのまま鵜呑みにして、真実を知ることなく、自分の頭で考えることなく、一方的に抱かせられた感情ではないかということです。

 脳死・臓器移植問題など、一つひとつの社会事象を、マスコミに流されるのでなく、自分の目で見て、心で感じて、深く考えることの大切さも、この本から学びました。

7月1日2006年07月03日【27】

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