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9月15日~心の弦をほどよく張って…

 秋のお彼岸の季節になりましたが、国会は、安倍首相の突然の辞職により、その後継者問題で大あわての様子です。

 さて、参院選挙敗北によって、その自民党内で問題になったのが、「一円以上の領収書」でした。相次ぐ閣僚の事務所費疑惑によって、政治への信頼を大きく揺るがせ、国民の不信を払拭するための対策でしょうが、それについて語る政治家の話に、私は苦笑してしまいました。

 「一円以上など守れない」、「いいや、ちゃんと守らなければならない」など、まるで「遠足のおやつは三百円まで」という決まりを、守れる、いやきっちり守れないと、教室で語り合った小学生時代を思い出してしまいました。政治家自身がそこまでしなければ、お互いの秩序と信頼を保つことができない現状が現れているようで、何とも残念な気がします。

 一方、最近のテレビを見ていますと、「ズバッ」とか、「スッキリ」という言葉が多く使われて、物事をキッチリ、白か黒か、善か悪かハッキリさせる内容が多いように思います。

 政治不信や企業の隠蔽体質が国民の不信を招き、その不透明な部分をテレビでハッキリさせようという傾向が現れることは、視聴率を重んじるテレビの世界なので、ある意味で止むを得ない感じがしますが、心したいのが、それを見ている私たちまで、白か黒か、善か悪か、正か邪か、という二元論の考え方にとらわれないようにすることです。

 仏教の物事の見方は、「中道」と言われます。これは極端に偏った見方や考え方をせず、ゆったりとした心で物事を見極めることです。世の中に不信や不透明がはびこると、ついせっかちになり、すぐにズバッとハッキリさせたい思いが強くなります。

 それはそれで大切なことですが、私たちの日常の物事の見方や考え方、生き方まで、そうなると困ったことになります。

 楽器の弦は強く張りすぎると聞きづらく、ついには切れてしまいます。逆に緩すぎるといい音が出ません。それと同様で、美しい音色が出るように、ほどよく心の弦を張ることが日々の生活で大切なことです。

9月15日~心の弦をほどよく張って…2007年09月15日【56】

9月1日~心頭を滅却すれば…

 今年の夏は格別に暑い夏でした。どこに行っても、どなたと会っても、「今年の暑さは例年と違いますね」というあいさつから会話が始まりました。

 以前、ドラマ「北の国から」の脚本家・倉本聰さんが、「地球温暖化ではなく、地球高温化といって、人間はもっと地球の危機を感じるべきだ」と言っておられましたが、本当にそれを実感する夏でした。

 私も、お盆には、一日かけて初盆のお宅をお参りしましたが、衣の下は汗でびっしょりです。

 「心頭を滅却すれば火自ずから涼し」と言った禅僧・快川紹喜(かいかわしょうき)師の言葉を思い出すのですが、滅却どころか、暑さはますます増します。

 快川師は、今年の大河ドラマ「風林火山」に出てくる武田信玄に招かれて、山梨県の甲斐の国、恵林寺の住職になります。しかし、織田信長の軍勢の侵略によってお寺は全焼、火中で座禅をくんでこの言葉を唱えたと伝えられます。

 煩悩を離れ、本当に無心になれば、燃えさかる火でさえ、そのまま涼しく感じるものである、という意味です。

 快川師は、きっと禅の厳しい修行の果てに、暑さの中で熱さを忘れる特別な境地を体得されたのでしょう。

 しかし、文芸評論家の亀井勝一郎さんは、「死に直面して、びくともしない名僧だけでは困る。死に直面して、悲嘆し狼狽する名僧もいなければ凡人は救われない」と言っておられます。

 私は、その悲嘆し狼狽する名僧のお陰で救われます。なぜなら、私のような凡人は、残念ながら、修行によってびくともしない心を持った立派な名僧にはなれそうにないからです。

 悲嘆するかもしれません。狼狽するかもしれません。もしかすると自らの人生を後悔するかもしれません。しかし、そのような凡人こそ、心から認めて救って下さる方が阿弥陀如来という仏さまです。

9月1日~心頭を滅却すれば…2007年09月01日【55】

8月15日~最善のご供養の姿を~

 私たち僧侶にとって、暑さとの戦いのお盆が過ぎました。
 今年も、初盆を迎えられたたくさんのご家庭にお参りに行きました。

 その中で、Cさん宅に参りましたら、五十歳前後のCさんが、お仏壇を指さして恥ずかしそうに、「お仏壇の掃除をしました。お花も買ってきて飾りました。お菓子や果物も供えました。初盆のちょうちんも飾りました。これで母は喜んでくれるでしょうか。いいご供養になるでしょうか」と、おっしゃいました。

 Cさんのお母さまの初盆で、Cさんと奥さまは、慣れない中にも亡くなったお母さんに精いっぱいのご供養をしようとされているのですが、最善の方法が何かを私に聞かれたのです。

 お仏壇を見ると、きれいな花で飾られ、お供物が供えられ、私からお仏壇のお飾りについて何も言うことはありませんでした。

 そこで私は、「仏さまとなられたお母さんにとって、一番のご供養は、あなたや奥さま、子どもたちがいっしょに手を合わせて、お念仏を申すことですよ」と、一番大切なことを申しました。

 私たちの手は、毎日の生活の中で、ともすると自分の思いで他人を押しのけようとする手です。自分の好むものを手中に入れようとする手です。憤りを感じるとコブシを握ることさえあります。

 私たちの口からは、ともすると愚痴や不平不満、意に添わないことがあると他人の悪口がこぼれ出ます。

 仏となられた方は、あとに残る縁ある者たちの、そのような姿を決して望んではおられませんし、願ってもおられません。

 あとに残る者がいっしょに手を合わせ、報恩感謝の南無阿弥陀仏のお念仏を称える姿こそ、仏となられた方が望まれる最高の姿であり、最善のご供養になることを私はお話ししました。

 その後、私はお勤めに入りましたが、Cさん宅は、お念仏の声が高らかに響いていました。

8月15日~最善のご供養の姿を~2007年08月15日【54】

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