こころの電話

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2006年2月1日

 2月は如月、夜空が最も美しい月です。

 さて、先月末、ライブドアの堀江貴文社長が逮捕されるという大きな事件がありました。
 巧みな企業の合併と買収によって、33歳という若さで巨大グループの総帥となり、多くの人気を博した堀江さんでしたが、一転して容疑者という立場になりました。

 逮捕を機に彼を悪く言うのはさけるべきですが、それ以前より私には、首をかしげる彼の行動がありました。きっと私だけではないと思うのですが、それは、堀江さんはどのような場においてもTシャツや普段着の姿たったということです。

 近鉄球団やフジテレビの買収に係る大切な会議の場でも、昨年の総選挙で多くの選挙民を前に演説をするときも、また正式な公の場で話をするときも、普段着だったということです。

 社会人が仕事で初めて面会するときや、正式な商談をするときは、男性はネクタイに背広というのが一般の社会通念です。多くの人々を前に大切な話をするときも同様ですが、堀江さんはどのような場においてもそうではありませんでした。

 服装というのは人それぞれ自由ですが、同時にそれは自分だけのためでなく、相手に対する敬意という意味も含まれています。

 私たちは普段、「心」という字に「身」とかいて心身と言いますが、元来仏教では、「身」という字に「心」と、逆に書いて身心と言いました。つまり、まず身を正してこそ、心が整えられるということです。 

 近鉄球団にしても、フジテレビにしても、それまで会社を支えてきた多くの人々と歴史があります。その会社を一人の若者が経営する会社に譲るか譲らないか、買収される側には大きな責任があります。無論お金の主たる問題でしょうが、堀江さんのそのような姿勢で、本当に心が通い合う話が出来るのだろうかと疑問に思うのでした。

 「お金があれば何でもできる。人の心でも買える。はっきりいうと人の命だって買えるんですよ」と豪語してはばからない彼の心が、形に表れたような感を受けました。

 気持ちさえあれば形は自由、どのようであってもよいではないかという今の時代だけに、考えてみたいことの一つです。

2006年2月1日2006年02月14日【17】

2006年1月15日

二〇〇六年が明けて半月、東北地方の大雪や仙台市の赤ちゃんの誘拐事件、大阪堺市では母子の強盗殺傷事件など、今年は大変な幕開けとなりましたが、そういう中にあって、安否が心配された柊羽ちゃんが助かったのには、胸をなで下ろす思いでした。

さて昨年末、教育関係の研修会である先生の講演をお聞きしました。その先生によると、日本では年々子どもの虐待が増加し、大変危惧される事態になっているとのことでした。

虐待にもいろいろあって、ける、つねる、なぐる、かむ、しばる、火を押しつける、水につけるなどの暴力。性的ないたづらをするもの。ごはんを食べさせない、衣服をかえない、医者にみせない、家に入れない、家に閉じ込める。また子どもの存在を無視したり、おびえさせたり、ば声をあびせたりすることなど、様々です。

注意したいのは、虐待をする親の約八割が、実は本人も親からそのような虐待を受けた経験があるということで、それが心と体に深い傷跡を残し、やがて無意識のうちに、自分の子どもにも同じようなことをしてしまうということです。

講演をお聞きしながら、幼稚園や保育園で子どもをお預かりする立場の者として、そのような家庭がないように努力しなければと深く思いました。

と同時に思ったのは、先ほどのご講師のお話を、自分自身に置き換えるとどうかということです。つまり今、私自身が子どもに虐待をしない。逆に、子どもの成長を喜び、子育てを有り難く感じることが出来るのは、決して自分の力だけではないということです。

虐待をしてしまう多くの親の原因が、自分も同じ事をされて育ったということは、言い換えれば、自分が虐待をしない。それどころか、子育てに喜びや感謝の思いを持ち、子どもとともに手を合わす生活ができるということは、私の力だけでなく、親をはじめ多くの方々からのお育ての賜ではないかということです。

自分自身をお育て頂いた多くの方々に深い感謝を思うと同時に、だからこそ、虐待のない社会にしなければ…と強い責任を感じることでした。

2006年1月15日2006年01月15日【2】

2006年1月1日

明けましておめでとうございます。今年も「覚照寺 心の電話」をよろしくお願い申し上げます。

さて、二〇〇六年、新たなる年のスタートですが、お経には人の尊い生き方について「施し」をあげ、金品を伴わない七つの布施を勧められています。

「眼の施しと書いて眼施」、これはいつもあたたかな眼差しを相手にそそぐことです。
「平和の和という字に、顔の施しと書いて和顔施」、これはどんな人にあっても和やかな顔で接することです。

「言うという字に広辞苑の辞、その下に施しと書いて言辞施」、これは周りのものにいつも優しい言葉をかけることです。

「身体の身という字に施しと書いて身施」、これは自分の身体を動かして他のために奉仕することです。

もう一つ心施。これは「心の施し」と書きますが、周りの人にいつも真心で接すること。

「床という字に座席の座、そして施しと書いて床座施」、これは相手にいつも喜んで座席を譲ること。

最後は、「房という字に家という意味の舎、そして施しと書いて房舎施」、これはいつも自分の家をきれいに整えて、喜んで誰にも提供することです。

お経には、この七つの布施を実践する人は、大果報を得ることが出来ると示されています。

一見すると、誰にでも出来そうな布施なのですが、難しいのは「どのような心理状態にあっても喜んで」ということです。

人はだれしも、自分の意に添うことであれば素直に喜ぶことが出来ますが、意に添わないことがあるとなかなかそうはいきません。また普段思いもしないことが突然起こると動揺したり、迷走したり、他人への施しどころではありません。

そこで大切なのがお念仏を称えることです。念仏の念とは今の心と書きます。つまり念仏を称えるとは、称える今の心に仏が届くのです。喜びの中にあっても、悲しみの中にあっても、苦しみの中にあっても「南無阿弥陀仏」と称える今の今、いつでもどこでも仏さまは宿ってくださいます。今年もお念仏をお称えしながら七つの尊い施しを実践して参りましょう。

2006年1月1日2006年01月01日【1】

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