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5月1日~「自信教人信」の歩みを…

 日の光に、新緑が輝いて見える季節です。

 さて、四月二十八日、二十九日に、覚照寺の本堂大修復の落慶、創立百三十年、第四世住職継職を祝う慶讃法要が執り行われました。

 二日間とも、とてもよい天気に恵まれて、大阪、京都、大分、また県内各地より有縁のお坊さん方が参集くださり、本堂満堂の参拝者のもと、にぎにぎしく法要が勤まりました。

 私も、大修復がなされた美しい本堂で、第三世住職の父より直接第四世の住職の任を譲り受けることが出来ました。

 「有り難い」とは、日常で頻繁に使う言葉ですが、すべての条件が見事に整って法要が勤まった二日間、このことを深く感ぜずにはおれませんでした。

 法要中、私は、阿弥陀さまの御前にて、住職継職の報告と決意を、「仏祖の冥加を受けて、歴代住職の足跡をたどり、門信徒方のご助力を得て、み法の灯を絶やさぬように、ひたすら精進いたし、自信教人信の歩みを重ねます」とお誓いしました。

 「仏祖の冥加を受けて」とは、仏教の開祖のお釈迦さまと、浄土真宗の開祖の親鸞聖人の目には見えない大いなる恵みとはたらきという意味です。そして、「自信教人信の歩み」とは、自ら阿弥陀さまの教えを信じて、また人にそれを教えて信じる人になってもらうことです。

 親鸞聖人は、その自ら阿弥陀さまの教えを信じて、また人にそれを教えて信じる人を育てることは、これ以上に難しいことはないとおっしゃっています。九十年の生涯をそれにそそぎこまれた聖人の実感でありましょう。

 しかし、僧侶のお仕事はこれ以外にないのも事実です。
 自らが阿弥陀さまの教えを進んで聞き、その尊さを身をもって周りの方々にお勧めする、それが僧侶で住職の本分です。

 これより住職として、その本分が全うできるように精進いたします。
 今後とも、このテレホン法話をよろしくお願いいたします。

5月1日~「自信教人信」の歩みを…2007年05月01日【47】

4月15日~仰いで感謝 迎えて躍進

今月中旬、ほぼ桜が散った鹿児島から、お仕事で京都の西本願寺に行きましたら、京都は桜が満開でした。会議に同席した北海道の方とお話をししましたら、北海道の開花はまだまだとおっしゃいました。日本は縦長の国ということをあらためて実感しました。

 さて、今月末の二十八日と二十九日に、「覚照寺本堂平成大修復落慶 覚照寺創立百三十年 第四世住職継職 慶讃法要」を行うことになっており、私も含め関係者は日々その準備に追われています。

  覚照寺は、岐阜県覚王寺出身の平島義山師が、明治十一年七月七日、本願寺第二十一代大谷光尊門主より鹿児島開教を命ぜられ、大隅の信者の強い要望により、明治十三年二月岩川に説教所を創設したことに始まります。

 現在の本堂は、昭和四年から六年にかけて建立され、以来、戦争や幾多の風雨、シロアリ被害や木材の老朽に堪えてまいりました。

 過去には、鹿児島県内で、覚照寺と同じ規模の大きなお寺が戦災で消失したり、老朽化で屋根が落ちたりしたこともあったと聞きますが、そのような中で、これまで大火に遭うこともなく、大隅岩川の聞法の道場としてその姿を保ってきたことは、百三十年という歴史の中で、歴代住職並びに坊守、そして先輩ご門徒方が仏さまのこそなればとご尽力いただいたお陰であります。

 そして、その先輩ご門徒方の尊い意志を受け継ぎ、ご門徒一人ひとりのお力添えによって、本堂の大修復を完遂出来ましたことを感謝し、お祝いをするのがこの度の法要の趣旨であります。

 さらに、この法要を機に、第三世住職から第四世新住職に法灯が受け渡され、新たな本堂の仏さまの前で、お寺としての新たなる出発誓うことも法要の大事な意義であります。

 法要のスローガンは、「仰いで感謝 迎えて躍進」。
 数十年に一度という記念すべき法要ですので、お誘い合わせの上、ご参拝いただきますようご案内申し上げます。

4月15日~仰いで感謝 迎えて躍進2007年04月16日【46】

4月1日~「慣れる」ことは大切だけど…

 例年になく遅い桜の開花です。

 さて、四月に入り、学校や会社でまた新たな年度がスタートします。新入生、新入社員には、早く新しい環境に慣れてほしいものです。

 そこで、その「慣れる」ということについて、私の思い出話をします。
 今から二十二年前、私は大阪の御堂筋にある本願寺津村別院に勤務しましたが、勤務して一年目、いわば小僧さん時代の話です。私を含め新人は、早くお寺の勤めに慣れようと一生懸命の毎日でした。

 その年の津村別院はなぜかお葬儀が多く、新人の私たちは、その準備や手配に追われていました。一つのお葬儀が終わるとまた次の葬儀が入る、という状態です。

 ある日、同僚の新人職員が事務室で、あまりのお葬儀の多さについ、「また、お葬儀か、しんどいな」ともらしました。重たい荷物を運んだり、全身でお経を唱えたり、大衆の前で緊張したり、傍目から見るよりも結構疲れるものです。私も内心、「ほんとだな」と思いました。

 しかし次の瞬間です。「おまえは何ということを言うか」と叱責の声がしました。その場に居合わした先輩の僧侶でした。そして、「葬儀を勤める側は何回あっても、葬儀を迎える側は一回切りぞ。そんなたるんだ気持ちで勤めたら
遺族にとって一回きりの葬儀はどうなるか」と、激しい口調で言われました。

 「勤める側は何回でも、遺族にとっては一回切り」。その時、私は大切なことを学ばせてもらいました。と同時に、早く慣れることは大切だが、慣れほど怖いものはない、とも思いました。

 「お葬儀はしんどいな」と言った同僚も、「ほんどだな」と思った私も、早く仕事に慣れようと必死でした。しかし、勤めて数ヶ月しかたたない私たちの心には、すでに「慣れの怖さ」が潜んでいました。

 先輩僧侶は、その怖さを鋭く指摘されたのでした。お互いに、心したいものです。

4月1日~「慣れる」ことは大切だけど…2007年03月31日【45】

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