こころの電話

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7月15日

 今年はなかなか梅雨が明けない上に、毎日、とても暑い日が続いています。

 さて、私事で恐縮ですが、数年前からご門徒のOさんの薦めで、観葉植物の「おもと」を栽培しています。緑色の大きな葉に、白い斑点や縞模様をつける様を楽しむもので、中には大変高価なものもあります。

 私のものには、それほどのはありませんが、しかし、今年、その鉢に大変なことが起きてしまいました。たくさんある鉢の中で、私が一番気に入っていた、しかも、今年もきっといい文様を見せてくれるだろうと期待していた二つの鉢から、どうしたことか新しい芽が出てこないのです。

 こんなことは初めてで、あれこれ考えてみると、私は大変な失敗をしたことに気が付きました。

 それは、「おもと」は、夏に入る前に花を咲かせるのですが、完全に咲く前に花は摘んでしまいます。葉の文様を楽しむ「おもと」ですから、花を咲かせる栄養を葉に行かせるためです。しかし私は、大切な二つの鉢の花を摘むときに、その花の横からわずかに出た新しい芽の先を、傷つけてしまったのでした。傷つけられた芽は決してそれ以上成長することはありません。

 ふり返るとそこには、今年も早くいい文様の葉を出させようとする私の欲がありました。仕事が忙しい中で、花や葉の状態をよく見ることなく手がけてしまった私の粗雑さと焦りがありました。たくさんの鉢の中からこの二つだけはという、偏ったひいき目もありました。数年栽培しているから、これくらい手をかければ充分だろうという、馴れとおごりがありました。

 その結果、大切な芽を摘んでしまったのです。摘んでしまった芽は二度と出ることはありません。

 「おもと」だけではありません。子育て、お仕事、人間関係などいろいろありますが、「大切な芽を摘む」ことはないでしょうか。「大切な芽を摘む」その裏には、早く思い通りにしたいという欲と、忙しさのなかで生じる粗雑さや焦りと、偏ったものの見方と、馴れとおごりがあることを、「おもと」はその身をもって教えてくれました。心したいものです。

7月15日2006年07月16日【28】

7月1日

 梅雨空の隙間をぬってさす日差しは、もう夏色です。

 さて、この梅雨の期間中に、小松美彦さんの『脳死・臓器移植の本当の話』という本を読みました。

1997年6月に国会で可決成立した、「脳死は人の死」と定めた「臓器移植法」の内容や臓器移植の現場の実態を、様々な角度から検証した本です。この本を読んで、私は大変驚くと共に、自らの無知を思い知らされました。

 脳死状態になった女性から子どもが生まれたこと。脳死と判断された人の脳波が蘇ったという事例があること。脳死判定を受けた人に、メスを入れた途端に血圧が急上昇したり、身体が激しく動き、移植医があわてて麻酔を打ったこと。移植推進の医師らが移植現場の実態を隠蔽し、さらに法改正をしようとしていることなど、挙げればきりがありませんが、この本には過去、現在、未来にわたっての、脳死・臓器移植についての様々な疑問点が記されています。

 私自身、脳死を人の死としていいのか、臓器移植を推し進めていいのか、あらためて考えさせられる機会となりました。

 さらに、その本の中で、「私たちは日々の生活の中で、自分自身が何かに対処しているようで、他人の目や心や頭を借りただけになってしまっていることがあるのではないか。自分の目で見て、自分の心で感じて、自分の頭で考えることがなくなってきているのはなかいか」という言葉が、私の心に残りました。

 つまり、毎日のように社会的な事件や問題が起こり、私たちはそれについて様々な感情を抱きますが、それが、本当に自分の目でよく見て、自分の心で感じて、よく考えた果てに抱く感情かどうかということです。

 ともすると、テレビを中心とするマスコミの情報をそのまま鵜呑みにして、真実を知ることなく、自分の頭で考えることなく、一方的に抱かせられた感情ではないかということです。

 脳死・臓器移植問題など、一つひとつの社会事象を、マスコミに流されるのでなく、自分の目で見て、心で感じて、深く考えることの大切さも、この本から学びました。

7月1日2006年07月03日【27】

6月15日

 梅雨に入り、沖縄では大雨で大変な被害が起きています。

 さて先般、京都・西本願寺の会議に出席し、帰りの飛行機の中のことです。私の座席番号は五番のC席、前から五番目の通路側です。最前列から一番目、二番目と追って行きますと、三番目の次が五番目で私の席、四番目がありません。

 飛行機は日頃から良く利用しているのですが、特に注意することがありませんでした。つまり数字の四は、「死」を連想するということで、座席番号から除いてあるのです。

 航空技術の粋を集めた最新鋭のジェット機の中で、数字の語呂合わせのような迷信が堂々とあることに、驚くと共におもしろくも感じました。

 同様のことが病院でもあるようで、エレベーターに四階の表示がない病院も時折あるそうです。実際、四階があるのに四階がないと表示する方が奇妙だと思うのですが、ここでも数字の四で「死」を連想することが原因のようです。数字の四にとっては、まったく迷惑で、心外な話です。

 「人が死ぬ」ということは縁起が悪いということで、少しでもわが身にそのようなことが起こらないようにとの願いからなのかもしれません。しかし、仏教の教えを説かれたお釈迦さまや親鸞聖人が示されたのは、そのような迷信から解き放たれた本当の自由の生き方です。

 お釈迦さまも親鸞聖人も、「こうしたらいけない」「こうしたら災いが起こる」など、周りの人の言うことを気にし、ありもしない幻影におびえ、バチやタタリにびくびくしながらの生活に、本当の安らぎや安心などありはしないとおっしゃいました。それを、「迷信の中に生きる人」といいます。

 一方、お念仏の教えをいただく人は、「真実の中に生きる人」といいます。それは、あらゆる迷信からテレビの占い番組、最新流行のタタリやバチまで、一切のものに惑わされず、おびえることなく、堂々とこの人生を生きぬく道です。

 なぜなら、お念仏をいただく人には、どのようなことがあろうとも、仏さまが常に寄り添ってくださっているからです。
 どうせなら、数字の四は、幸せの「し」と読みましょう。

6月15日2006年06月16日【26】

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