こころの電話

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2005年8月1日

昨年から取りかかっておりました本堂大修復も、皆さまのおかげにより、見違えるほど立派な本堂が完成しました。今年の初盆法要は、きっと沢山の方々がお参りなさることでしょう。

さて、お盆は、正式には盂蘭盆(ウラボン)といい、悩み苦しみ多き人間が、仏さまのみ教えによって救われることを意味します。

今から約2,500年前のこと、お釈迦様のお弟子の目連さまが、修行で体得した先の世を見通す力で、今は亡きお母さんの姿を探しました。お母さんは仏さまの世界ではなく、あろう事か苦しみの世界・餓鬼の世界に墜ちていました。

餓鬼の世界とは飢えと乾きの世界で、生前の欲深い貪りの罪で墜ちる世界です。飢えに苦しむ我が母を見て、目連さまは水や食べ物を持って行きますが、すべて口元で火となり、母親を助けることが出来ません。

目連さまはお釈迦様のもとへ走り助けを求めました。するとお釈迦様は、「目連よ、そなたの母は我が子一番、我が子大事と、そなたを一生懸命育てるがあまりに、周りにたくさんの罪を犯して餓鬼の世界に墜ちたのだ。我が子を育てるのに多くの罪を作らざるを得ないのが、母親の逃れ得ぬ性である。目連よ、今そなたがあるのは、苦しみの世界に墜ちてまでも、我が子を育てようとした母のおかげではないか、その恩を忘れてはなぬ」。そして、我欲にかられた人生を送るのではなく、周りの人へ施しをする尊き人生を送るよう諭されました。つまりお盆には、「我欲の心を戒め、施しの心を大切にしなさい」という仏さまの教えがこめられているのです。

目連さまは、そのお釈迦様の教えをいただいて、お母さんも仏さまの世界に救われていったと言われます。

「お盆には、ご先祖が帰ってくる」といわれますが、ご先祖は霊魂のようなものではありません。光り輝く仏さまとなって帰ってこられることを心してください。しかも手ぶらではありません。後に残されたものの人生が尊いものとなるように、すばらしい仏さまのみ教えとともに帰ってきてくださるのです。

その仏さまとなられたご先祖に感謝し、仏さまのみ教えをお聞きするのがお盆の大切な意義なのです。

2005年8月1日2005年08月01日【12】

2005年7月15日

七月も半ば、「暑いですね」が、毎日のあいさつ言葉です。

さて、今月七日、イギリスでまた同時爆破テロが起きてしまいました。たくさんの方々が亡くなり、負傷され、不特定多数の人々をねらうテロという行為に恐怖を感じると同時に、憤りを感ぜずにはおれません。

犯人が特定されつつありますが、いずれにせよ、なにがしかの強い怨み、怒りを持もって行ったには違いありません。

先日、西本願寺の大谷光真ご門主がお書きになった「明日には紅顔ありて」の中に、このようなエピソードが紹介されていました。

第二次世界大戦が終結し、敗戦国となった日本に対し、各国から賠償請求がなされたとき、当時、戦勝国イギリスの統治下にあったセイロン・現在のスリランカは、損害賠償を放棄したそうです。その時のセイロンの外務大臣・ジャアワルデネ氏は、サンフランシスコ講和条約締結の席上で、このお釈迦さまの言葉を引いて賠償請求を放棄する演説をしました。

「もろもろの怨みは怨み返すことによっては、決して鎮まらない。もろもろの怨みは怨み返さないことによって鎮まる。これは永遠の真理である」

大谷ご門主は、「戦後の日本の発展は、こうした仏教徒の心によって支えられてきたということに、今一度思いをはせてみるべき」とおっしゃっています。

世界では、様々な紛争が勃発し、幼い子ども、女性、ご老人、たくさんの方々いのちを失っています。日常、人のいのちを奪うなら犯罪とされるところが、戦場では人を殺すことが英雄という、人間の不条理な現実を直視すべきです。

「すべてのものは暴力におびえる。すべての生き物にとっていのちは愛おしい。おのが身にひき比べて、殺してはならぬ。殺させてはならぬ」ともお釈迦さまは述べられました。

皆それぞれ、自分のいのちほど大切なものはないのですから、自分の身にひき比べて、ほかのいのちを大切にしようということが、重要なことです。

テロや戦争を遠い国のこととせず、自らの問題として問い直してみましょう。

2005年7月15日2005年07月15日【13】

2005年7月01日

梅雨に入りましたが雨が降りません。農作物に影響がないか心配する毎日です。

さて、世の中は寒天、ところてんブームのようです。どこのお店でもよく売れているそうで、この火付け役はあるテレビ番組だったようです。

でも、寒天やところてんがノーカロリーで健康食なのは昔からよく知られたことで、今さら…と思いながら、わが家の冷蔵庫を開けてみると、ご多分に漏れずちゃんとところてんが入っていました。テレビ番組の影響はすごいものです。

テレビが世に現れて、街頭のモノクロテレビに映る力道山の姿に皆が酔いしれてから約半世紀が経ちました。ご法事に出向いても、どこのお宅も、今や大型カラーテレビがデンと置いてあります。日本人が引っ越しをするときにまず持っていくもの、引っ越しをしてまず設置するもの、いずれも一位はテレビです。それほどに、私たちの生活とテレビは切っても切れない間柄になっています。

しかし、一昔前までは、家庭の中心はお仏壇でした。神道の家庭は神棚でした。引っ越しの時も、家庭でのあらゆる行事の時も、まずお仏壇が中心でした。しかし、知らず知らずのうちに、それに変わって家庭の中で絶対的な位についたのがテレビです。

幼稚園の園児が、「私のお母さんは、朝の忙しい時間に、テレビのワイドショーの占いコーナーを全部見るのに必死なの」と言っていましたが、まさしくそれを示しています。

やらせ番組や作られた感動ドキュメント番組など、数えればきりがないのに、依然としてテレビへの信用性は揺らぎません。

テレビが悪いということではありません。テレビはありとあらゆる情報をふんだんに伝えてくれる文明の結晶とも言うべきものですが、問題は内容が真実かそうでないかということよりも、いかに人々の興味をそそるか、人の目を奪うかということが最優先されるものであることを、常に心しておかねばなりません。

いかに人の興味をそそるか…ということは、いかに人の欲をかき立てるか…ということに他なりません。人の欲は正しい教えを持たないと無限大に広がります。

自分たちが創り出した文明の利器に、いつの間にか支配されてしまっていることに気付く智慧だけは持ちたいものです。

2005年7月01日2005年07月01日【14】

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