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8月1日~合掌の姿がなくなる?
参議院選挙の激しい戦いも、自民党の惨敗という結果に終わりました。
さて、文部科学省が出している『こころのノート』というものがあります。小学生にあいさつが大事だということを教える教材ですが、その中で、ご飯をいただく際、「いただきます」「ごちそうさま」を言うときに、合掌は仏教徒の作法だから、政教分離に反するので、合掌をしない姿が記されています。
ご存じの方も多いと思いますが、合掌は、人間が感謝や敬いの思いを身体に表す最高の姿であって、決して仏教徒のものだけではありません。
現在、インドは仏教国ではありませんが、「ナマステ」と言い、合掌が日常のあいさつです。カトリック教徒のマザー・テレサも生前は合掌してあいさつをし、祈りをささげています。パリのノートルダム寺院には、ジャンヌ・ダルクの合掌する聖像が安置されているそうです。
このように、合掌は仏教徒のものだけではありませんし、日本人が先祖代々大切にしてきた尊い姿が、一部の誤った論者によっていとも簡単に失われていくことを誠に残念に思います。
ご門徒で、仏教壮年会のCさんの思い出話です。Cさんと仏教壮年数名は、福岡で開催される仏教壮年の大会に出席するために出掛けました。大会に出席し福岡市内のホテルに宿泊したのですが、夜おなかがすいたため、屋台のラーメンを食べに出向きました。
そして、出されたラーメンを前にCさんたちは、ごく自然に手を合わせ、「いただきます」と言ってラーメンを食べたところ、その屋台の店主が、「私は、この屋台を引いて何十年もラーメンを作ってきましたが、私の作ったラーメンに手を合わせ、『いただきます』と言って食べてくださった方は、あなた方が初めてです。有り難うございます」と、お礼を言ってくださったそうです。何ともすばらしい出来事だと思いませんか。
人間が、お互いに感謝し合い、敬う姿勢を大切にしたいものです。
そして、今年もお盆の季節になりました。感謝と敬いの心で、仏さまにお参りをしたいと思います。
8月1日~合掌の姿がなくなる? | 2007年07月31日【53】
7月15日~主体性を持って考え行動する人に…
台風四号は、九州地方に多大な被害を残していきました。
さて昨今、教育界では、犯罪やいじめまた自殺など青少年を取り巻く様々な問題に対して、道徳教育の重要性が言われていますが、その道徳について、宗教家のひろさちやさんに読者のAさんから届いたお手紙を紹介します。
Aさんは大正生まれ。大阪の女性で、手紙にはAさんが小学生のころ、明治生まれの厳格な父親に連れられて、汽車で東京に行ったときのことが記してありました。
「行きは夜行列車の三等車でした。だから、列車の中はゴミだらけです。小学生の私は鼻紙を出して鼻をかみました。そのあと、その鼻紙をぽいっと床に捨てました。見ていた父は、その時何も言いませんでした」
父親は、娘の行為を黙って見ていたそうです。
帰りは「つばめ号」の展望車。戦前の超特急列車で、超デラックス車両です。Aさんはその展望車の中でも鼻をかみましたが、行きのゴミだらけの三等車と違い、ゴミ一つ落ちていない豪華な展望車の車内です。Aさんは鼻紙をどうしようかと迷います。そして、その鼻紙をポケットに入れたのです。
その途端、父親はAさんを厳しく叱りました。
「お前はなんてだらしのない子だ。周りがゴミだらけの三等車の中では平気でゴミを捨てる。だが、周りがきれいだとゴミが捨てられない。お父さんは、お前がそんな子であってほしくない」
父親がAさんに言いたかったことは、周りに流される人になるな。周囲の奴隷になるな。主体性を持って考え行動する人となりなさいということです。
周りがゴミだらけだと自分も捨てる。周りがきれいだと捨てられない。道徳教育を行うことは大切なことですが、道徳は周囲の環境や状況によっていかようにも変化する限界を持つことも、それを勧める大人は認識しておく必要があるでしょう。
Aさんは手紙の最後で、「やはり、明治生まれの父には、しっかりとした宗教心があったのだと、私は父を尊敬しています」と、おっしゃっています。
7月15日~主体性を持って考え行動する人に… | 2007年07月16日【52】
7月1日~お手本がいない世の中
梅雨空の隙間をぬって差し込む光はすでに夏の日射しです。
さて先般、聖路加国際病院名誉院長の日野原重明先生のインタビュー記事を目にしましたが、日野原先生は年を取るということについて、「老化」と「老い」は違うとおっしゃっています。
「老化」とは、老眼や白髪、しわが増え腰が曲がったりする肉体的なもの、自然的なものをいい、「老い」とは、その老化していく中に宿る自分、つまり心であって、考え方感じ方でいかようにも変わるということであり、もっと言えば、いかに自然の肉体的な老化があろうとも、老いは自分が創り出せるものであるということです。
日野原先生は、その老いは自分でデザインしていくもので、そのヒントは、「私もああいうふうな人になりたい」という特定の人を目標にしたり、モデルにすることがいいとおっしゃいます。
つまり、自分のあこがれ、お手本を持つことが、よりよい老いを創り出すヒントになるということです。
その記事を読みながら、人が、自分のあこがれ、お手本を持つということがいかに大切かがわかりますし、それは老人も幼い子どもも同じだとあらためて思いました。と同時に昨今、子どもたちのあこがれ、お手本になる大人がいかに少ないことでしょうか。
テレビでは、国民の年金の記録を紛失し放置していた社保庁の無責任体質、ブタや鳥の混合肉を牛肉100%と平気で偽る社長、土地建物の売却詐欺事件で逮捕された元公安調査庁長官など、耳を疑いたくなるような大人の姿が毎日のように映し出されています。
まことにさびしくはずかしい気持ちになりますし、「子どもたちにとって、信じられる大人がいない。ましてやあこがれ、お手本とする人など、今の世の中にいない」、ここに社会的な大きな問題があるようにも思います。
まずは身近なところから…、自らの日々の姿は、周囲の子どもたちにとっていかがでしょうか。少し立ち止まって省みることが大切なようです。
7月1日~お手本がいない世の中 | 2007年07月02日【51】