こころの電話

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2006年3月15日

 鮮やかに咲いた岩ツツジが、先日の春雨であっという間に散ってしまいました。

 さて、春が近づき、山では樹木が芽吹き、鳥たちの元気なさえずりが聞こえてきますが、お経には、極楽浄土にもいろんな鳥たちがいて、常に美しい声で仏さまの徳を讃えていることが記されています。

 その中に、「共」に、「命」の、「鳥」とかいて、「共命鳥」という鳥がいます。この鳥は、一つの同体に二つの首がついた不思議な鳥で、とても美しい声を持った鳥です。

 この共命鳥が、お浄土の鳥となったのにはある謂われがあります。というのも、共命鳥は、二羽の鳥が一心同体の姿をしていながら、以前より助け合うことがなく、ケンカばかりしていたのです。

 互いに、「私の声の方が美しい」、「いや、私の声の方が人々を魅了する声だ」と、いつもケンカばかりしているのです。そして、とうとう「あいつさえいなければ…」と、一つの頭が、もう一つの頭の食べる食事に毒を入れました。それによって、一つの頭は死んでしまいましたが、当然のこと、同体はいっしょですから、もう一つの頭の方も死んでしまいました。

 その愚かな行為を知った仲間の共命鳥たちは、大切なことに気づかされたのです。「相手を滅ぼそうとすることは、自分も滅びることになる。自分が生きようとすれば、相手も生かそうとしなければならぬ」という真理を、共命鳥は知ったのです。「共に支え合って生きること」を悟ったのでした。

 それ以来、共命鳥は、真理を悟った極楽浄土の鳥として、お互いに助け合いながら、昼夜仏さまの徳を讃えて、美しい声で鳴いていると言われます。

 私たちも、家庭で、仕事場で、地域で、助け合って生活をするといいことがたくさんあります。いがみ合って生活をすると、心は荒れすさんで、おおよそいいことなどありません。

 喜び事も、大勢の人で共に喜べば、その喜びは二倍にも三倍にもなります。悲しいこと苦しいことは一人のこととせず、皆でともに取り組めば、その悲しみ苦しみは二分の一、三分の一と小さくなります。そのことを共命鳥は教えているのです。

2006年3月15日2006年03月16日【20】

2006年3月1日

 二月が逃げるように過ぎていきましたが、寒さも次第に和らいできました。

 さて、二月初旬のテレホン法話で、逮捕起訴されてしまったライブドアの堀江貴文元社長の身だしなみについてお話しいたしましたが、それについて大隅町のKさんよりお便りを頂きました。一部をご紹介します。

 「テレホン法話をお聞きして、本当にそうだと思ったのですが、私にも同じようなことがありました。

 老人クラブで小学校に見学に行き、ふれあいの場で若い女性の先生の服装があまりにもひどかったこと。私どもが草取りなどの仕事をするときよりも薄汚れた、だらしない服装でした。

 神聖な教育の現場、これで教壇に立たれ、何で先生として尊敬できるのだろうかと心が痛みました。家に帰りその手で校長先生に手紙をと思いましたが、一介の老婆があまりおこがましいことかと逡巡してあきらめましたが、今日の電話は心に響きました。私どもの頃は、男の先生は背広にネクタイ、女の先生は襟元をきっちり合わせ袴をはかれて気品があり、子ども心にあこがれと尊敬をもって授業を受けたものでした。

 お寺では墨染めの衣に真っ白な足袋で姿形を整え、如来さまの前でご法話をしてくださる姿は清らかで、尊敬の念が湧いてきます。それで私どもも心を正して一言半句も聞き逃さぬようにしています。
 テレホン法話で、まず心は、身だしなみからだとの訓を再認識しました」

 拙いテレホン法話に、まことに有り難いお便りをいただきました。
 Kさんのお父さまは、Kさんが幼い頃、一家団欒の夜の食卓で、「人にはやさしく、自分に厳しく、人に好かれ慕われる人間になりなさい」とおっしゃっていたそうですが、その凛としたお心がにじみ出るようなお便りです。

 Kさんがお手紙のなかで一句詠んでくださいました。
 「ご法座や お僧の足袋の 白さかな」

 ホリエモンのことばかりでありません。この私も、身と心を引き締めて勤めに励まねばと、あらためて諭されることでした。

2006年3月1日2006年03月16日【19】

2006年2月15日

 トリノオリンピックでは、日本の選手達が一生懸命頑張っていますが、なかなか世界トップの壁は厚いようです。

 さて、デンマークの新聞がイスラームの預言者・ムハンマドの風刺画を掲載したことによる怒りは、各地で暴動と化し問題となっています。イスラーム信者が心より敬愛する創始者を、言論の自由を盾に、安易に中傷することは許されませんが、またそれに対する怒りを、暴力で主張することも許されることではありません。

 このムハンマドは数々の奇跡を起こしたといわれるのですが、ある日、ムハンマドは「私は山を動かす」と予告しました。当日になって、大勢の見物人を前に、ムハンマドは、「おーい、山よ。こちらに来い」と大声で三度、山に命じたそうです。しかし山は動きません。そこでムハンマドは言いました。「かくなるうえは、私が山へ歩いていこう」。
 これが奇蹟だそうです。どういうことでしょうか。

 話は変わりますが、中国の六世紀のお坊さん、傅大士の言葉に、「橋は流れて川は流れず」というものがあります。人間の常識では、川が流れて、その上に架けられた橋は動きません。しかし、私たち人間の視点を、流れる川の水に合わせれば、水が固定して橋が流れているとも言えます。禅宗のお坊さんの傅大士は、そのようなものの見方の可能性をこの言葉で示しているのです。

 私たち人間は、他人とケンカになったとき、相手が悪い、相手が謝ってこないと言っては、いつまでも対立を続けることがよくあります。家庭内での小さなケンカも、国同士の大きな戦争も同様です。しかし、相手が謝ってこなくとも、自分の方から謝っていけば、相手が謝ってきたのと同じ状態になります。

 私たちは、自分ががんとして動こうとせず、相手を動かすことばかりに執着しがちですが、考え方もしくは視点を変えると、相手が動かずとも、こちらが動けばいいわけで、それによって物事が好転することも多々あるわけです。

 ムハンマドが自ら山へ歩いて行ったのも、傅大士が「橋は流れて川は流れず」と言ったのも、そのものの見方、考え方の転換を示したものです。

 私たちの生活のなかでも、このようなことはないでしょうか。

2006年2月15日2006年02月15日【18】

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