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9月1日~「家庭」で大切なことは…

 朝夕、少しずつ秋の気配が感じられるようになりました。

 さて、最近ニュースを見ていますと、家庭で子どもが親を殺めたり、親が子どもを殺めたりする事件が、ますます多くなっているようです。

 お釈迦さまは、「家庭」とは、「心と心がもっとも近く触れ合って住むところ」とおっしゃっていますが、その家庭で痛ましい事件が起きていることは誠に残念なことです。

 「家庭」とは「家の庭」と書きます。庭は野原や山と違って、木や草花をそのまま放置せずに、定期的にお世話をし栽培しなければなりません。私もご法事でいろんなお宅にお参りに出向きますが、手入れの行き届いた庭は庭木がいきいきとして、とてもすがすがしく感じますが、手入れをされていない庭はうっそうとして、良い感じを受けません。

 それと同様で、家庭を家の庭と書く意味は、家族の一人ひとりが庭の草木に当ててあるからでしょう。大きい木も小さい木も、大きな花も小さな花も、それぞれに心をこめて育てられることにより、美しくいきいきと成長するという意味があります。

 日光を十分得なければならない花が、大切な時期に日光を得ることができなければ育ちません。その花の周りの枝を払わなければなりません。今から大きく枝を伸ばす木に、ツルが絡まったら伸びません。ツルを取らなくてはなりません。今から自然に枯れゆく木の周りを猫が暴れたら大変です。猫が入らないようにしなければなりません。

 このように、家庭という字は、家族一人ひとりがお互いに心配りをして、平等に育ち合う大切さを表しています。

 お釈迦さまは、「人の心もむつみ合えば花園のように美しい」とおっしゃっていますが、逆に「もし家庭が心と心の調和を失うと、激しい波風を起こして破壊をもたらす」とも諭されています。

 心と心の調和を失わせるものは何でしょうか。それは自らを良しとし、相手を悪しとする驕り高ぶりの心です。

 日ごろから、家庭で、仏法を聞く大切さを痛感することです。

9月1日~「家庭」で大切なことは…2006年08月31日【31】

8月15日~幽霊が見えた、お化けが出た!~

 お盆が終わりました。皆さんもそれぞれにお墓参り、お寺参りをされたことでしょう。

 覚照寺では十三日に「初盆合同法要」をお勤めし、十四日、十五日と初盆のお宅に参り、昨年から今年にかけてお浄土に往生された方々をともどもに偲びました。

 さて、そのようなお盆の風情とは裏腹に、この季節、テレビで毎年のように放送されるのが幽霊の番組です。皆さんは、幽霊とお化けの違いをご存じでしょうか。

 それは、幽霊は人に憑いて出て、お化けは場所に出る、ということだそうです。たとえば、山下さんという人に憑いた幽霊は山下さんだけに見えます。山下さんが福岡に行けば福岡に、東京に行けば東京に、山下さんの幽霊は憑いていきます。

 そして、山下さんに憑いた幽霊は、友だちの小川さんには見えません。そうです。山下さんの幽霊は、山下さんの怯えた心が作りだしたものです。

 お化けは場所に出るということは、うっそうとした森や湿気の多いお墓、柳の木の下や古井戸、また、今は使用していないトンネルといった気味悪い雰囲気を持った場所がお化けを作ります。ですから、たった一人だけでなく、そこには多くの目撃者が出るのです。

 つまり、人に憑いて出る幽霊も、場所に出るお化けも、人間の心が作り出す存在なのです。逆に、心の強い人の前には幽霊やお化けは出現しません。

 そのことを、真言宗の開祖・弘法大師空海は、「人々の心清らかなるときは、仏を見ることができ、もし心が煩悩に惑わされて清らかでないときは、仏を見ることができない」とおっしゃっています。

 なるほどと思います。詐欺に引っかかる人は、たいてい欲深いそうです。欲のない人は詐欺にはあまりあわないと聞きます。「あいつは鬼のようなやつだ」と、激しく非難する人の方が、鬼の心になっているのかもしれません。

 いつも、明るくすこやかな心で、目には仏さまのお姿が見えるような日暮らしをしたいものです。それには、仏法を重ねて重ねて聞くことでしょう。

8月15日~幽霊が見えた、お化けが出た!~2006年08月16日【30】

8月1日

 今年もお盆が近づいてきました。

 さて、お盆は、正式には盂蘭盆といい、悩み苦しみ多き人間が、仏さまのみ教えによって救われることを意味します。

 先日、大勢の小学生に、そのお盆にちなんで、芥川龍之介の有名な「くもの糸」のお話をしました。ところが、その小学生の大半が「くもの糸」を知らないのです。

 ある日、お釈迦さまが、極楽浄土の美しい池のほとりを歩いておられたとき、ふと、水面から地獄の世界をご覧になられました。地獄の血の池では、生前、さまざまな罪を犯した者たちが、あえぎ苦しみもがいている姿が見えました。

 その中に、カンダタという者がいました。カンダタは、生前人を殺したり、放火をしたりした大罪人でしたが、お釈迦さまがカンダタの生前をふり返ると、たった一つだけ良いことをしていました。

 それは、カンダタが森を歩いていたとき、一匹のくもを見つけ、思わず踏みつぶそうとしましたが、「いや、この小さなくもにもいのちがある。そのいのちをむやみにとるとは、いくら何でもかわいそうだ」と、逃がしてやったのです。

 そのことをちゃんと見ておられたお釈迦さまは、カンダタを極楽へ救おうと思い、池のほとりに巣を作っていた黄金色のくもの糸を一本、血の池に垂らしたのです。

 カンダタは、「しめた」と、くもの糸にしがみつき、すぐさま極楽へと登り始めますが、下の方を見ると、今まで共に血の池にいた罪人たちが次から次に登ってきて、くもの糸が今にも切れそうです。

 カンダタは、「おい、罪人ども、この糸はおれさまのものだ。お前たち誰に許しを得て登ってきた。すぐに降りろ」と叫びました。と同時に糸は切れて、カンダタは皆とともに、また血の池に堕ちてしまったという話です。

 人間のエゴイズムの悲しさを、お釈迦さまの眼をとおして万人に語りかけたすばらしい物語ですが、そのお話を知る子どもたちが、今や世の中から消えつつあります。と同時に、「自分さえよければいい」という利己主義の人間が増え、自分さえよければ人はどうなってもいいという悲しい時代になりました。子や孫たちへ、語り継ぐことの大切さが身にしみます。

8月1日2006年07月31日【29】

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