こころの電話

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2月1日~今、輝き放つ仏陀の教えを…

 植木の梅の木に紅色の花が咲き始めました。

 さて、このテレホン法話を聞いてくださっている二月初旬、私はインドのお釈迦さまの聖地をお参りしています。鹿児島県内から三十五名、その内覚照寺から十名のご門徒をご案内しての旅です。

 お釈迦さまは、およそ二,五〇〇年前、ヒマラヤのふもと、ネパールのルンビニー園で釈迦族の王子としてお生まれになり、後の世に仏陀となられました。仏陀とは「目覚めしもの」という意味です。

 仏陀となられたお釈迦さまは、出家以来、八十歳のご生涯を閉じるまで、多くの慈悲と涵養にあふれる教えを説かれ、その教えは、二,五〇〇年の時を経て、不滅の真理として輝きを放ち、私たちに生きる教えを説き続けています。

 「人は、生まれによって賤しい人となるのではない。生まれによって高貴な人となるのでもない。行いによって賤しい人ともなり、行いによって高貴な人ともなる」

 「自らの欲を押さえ、周りの者に施せ、慈しみの心を実践することが真実の行いであり、現世と来世に果報をもたらすであろう」
 と述べられ、人を差別することなく、いつも慈悲の心を持って生活をすることが大切だと諭されました。

 「怨みに報いるに、怨みを以てしたならば、ついに怨みの止むことはない。怨みを捨ててこそ、怨みは止む。これは永遠の真理である」
 と述べられ、怨みを捨て、争いのない平和な世界を築くことを諭されました。

 「まじないによって幸せが得られると思うな。外的なことによって幸せが得られると思う人は、実はその心によって幸せを得ることが出来ない」

 「信仰によって激流を渡り、勤勉によって海を越える。努力によって苦難を克服し、智慧によって清らかとなる」
と述べられ、すべての占いや呪いを否定され、正しい信仰と精進によってまことの幸せが得られることを諭されました。

 そのお釈迦さまの聖地を今の今、参拝させていただいております。有り難いことです。

2月1日~今、輝き放つ仏陀の教えを…2007年01月27日【41】

1月15日~ 荒れる日本、省みるは…

 年が明けていっそう寒さがましてきました。
 さて、新年早々、兄が妹を、妻が夫をバラバラにと、耳を疑いたくなるような事件が多発しています。残忍と言うより猟奇的と言う方がふさわしい残念な年明けです。

 一方お寺では、このようなことがありました。
 昨年十二月にお母さまを亡くされたNさんが、年末にお寺に来られたおり、「ちょうど元旦が母の二七日です。お正月ということもあって、親せき皆でお寺で法事を勤め、その後、会食をします。でも、ご法事で精進料理をせねばと思うし、一方ではお正月ということでご馳走をと思うし、どうしたらよいでしょう」という質問をされました。

 Nさんの家族・親せきは、昔からご法事を大切に勤められます。ご法事に精進料理をするのは、大切な家族の命を失ったことを悲しみ、せめてその日だけは、人間と同じ命を持つ動物の命を殺め食することを控えるという、仏教徒の尊い謹みの行為です。

 Nさんは、お母さまのご法事に精進をしなければ、でも、お正月にしか会えない親せきが集まるから懇親やおもてなしの意味もあって…と、悩んでおられるのです。

 私は、最初に簡単な精進料理を頂いて、その後に、お正月のご馳走を頂くように。大切なことは、お母さまのご法事の意味と、尊い精進の心を、子どもたちや孫たちに確かに伝えることですから…とお答えしましたが、同時に、このNさんが、お母さまのご法事一つひとつを大切に勤めようという姿勢がすばらしいと思いました。

 Nさんは、毎週のご法事を一日送らせて日曜日に設定し、そこには中学生、高校生の子どもたちがたくさんお参りし、手を合わせます。お勤めが終わると、皆元気な声で「有り難うございました」と深々とお礼を申されます。

 このご家族一同の姿を見て、ここには、骨肉の争いをするような夫婦、兄弟、親子は決して生まれないと固く思います。

 今、荒れる日本が省みねばならないのは、このような感謝の生活の有り様です。

1月15日~ 荒れる日本、省みるは…2007年01月15日【40】

2007年1月1日~限りなきいのちと光に包まれて…

 あけましておめでとうございます。二〇〇七年、平成十九年の出発です。
 今年も、覚照寺「心の電話」をよろしくお願いいたします。

 さて、覚照寺では元旦の朝、新年最初の法要・「修正会」を勤めました。たくさんのご門徒が家族でお参りされ、いっしょに「お正信偈」を声たからにお勤めして、互いに「あけましておめでとうございます」とあいさつをしました。そして、仏さまにお供えしたお酒杯をいただきました。

 親鸞聖人は、お書物の中で、「世の中安穏なれ、仏法弘まれかし」と言われ、この世の平和と仏教が広まること願われました。私もそのお心をいただいて、精いっぱいのお勤めをしました。

 私たちが手を合わすのは阿弥陀如来という仏さまですが、この仏さまは無量寿と無量光のはたらきを持つといわれます。

 無量寿とは、限りのないいのちを持つ仏さまという意味で、これは私の過去、現在、未来、いつでもどこでも、慈しみの心で寄り添って支えて下さるはたらきをあらわしています。

 無量光とは、限りのない光を持つ仏さまという意味で、これは悩み苦しみ多き私の人生を、常に智慧の光で真実の世界に導いて下さるはたらきをあらわしています。

 考えてみれば、私たちを取り巻くすべてのものは、限りあるものばかりです。私のいのちもそうですし、家族や友人のいのちにも限りがあります。私の地位や財産、ものの見方考え方にも限りがあります。その限りあるものの中で、限りあるものにしがみつき、思い悩み喘いでいるのが人間の姿かもしれません。

 阿弥陀如来に手を合わせ、そこに説かれる教えを聞きひらいていくことは、そのような私が、限りなく広い心とものの見方に恵まれ、そこに豊かな人生が開かれるということです。

 「一度きりの尊い道を、今歩いている」という言葉がありますが、新年にあたり、今一度そのことを心したいと思います。そして、その尊い道を根底から支えて下さるのが阿弥陀如来の無量寿無量光のはたらきです。

2007年1月1日~限りなきいのちと光に包まれて…2006年12月31日【39】

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