こころの電話

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5月1日~無知が誤解を生み、誤解が…。

 五月晴れのすがすがしい天気が続き、ゴールデンウィークは絶好の行楽日和となっています。

 さて、新型インフルエンザが流行しています。今月初旬で感染が確認された国は十六カ国、感染者は計約六百人となり、カナダや韓国では、二次感染の疑いのある患者も出ているそうです。

 日本においても、カナダにホームステイをした横浜市の男子高校生、四月末にアメリカから帰国した女性に感染の疑いが持たれていましたが、いずれも新型インフルエンザではありませんでした。

 以前より、パンデミックという感染爆発の恐れがあることは言われていましたが、実際、予想だにしない早さで世界各国に広まると、つい慌ててしまうのがわたしたちの心情です。

 ただ、私がここで思い出すのは、今はもうお亡くなりになりましたが、以前お会いした水俣病の語り部だった、杉本栄子さんのお話です。

 水俣の町に、神経を冒される病気が出始め、当初それは伝染性の奇病と思われ、多くの差別と偏見を生み、杉本さんのご家族を始め多くの人々が大変な苦しい思いをされたそうです。

 その経験を通して杉本さんは、「物事を正しく知らんことはいかん」とおっしゃいます。つまり、常に正しい情報を学び、周囲を飛び交う誤った情報に左右されてはいけないということです。

 既に日本では、日本在住のメキシコ人が過剰に阻害されたり、メキシコ人が経営するレストランのお客が激減するような状況が出ています。このままでは日本産の豚肉まで影響が出るやもしれません。無知が誤解を生み 誤解が偏見を生みます。

 続いて杉本さんは、「知ったかぶりや嘘を言ったらいかん」とおっしゃいます。つまり、テレビからの興味を過剰にかき立てるような情報や聞きかじりの情報を無責任に周囲に言い放ったらいけないということです。

 正しい情報を知り、適切な予防法によって、これ以上拡大しないように心がけたいと思います。

5月1日~無知が誤解を生み、誤解が…。2009年05月02日【95】

4月16日~他人は他人、自分は自分。

 春の暖かな日差しに、新緑がまばゆいばかりに輝いています。

 さて、新しい年度が始まり、新社会人にとっては、希望に満ちた道が開かれました。
 どのような職業であっても、楽な仕事ばかりではありません。時には「雑用」と言われる、あまりお金にならない、また評価もされない仕事をやらざるを得ないときがあります。特に、新人と言われる人たちには、雑用をしなければならないことが多いと思います。

 だれしも、「雑用」をやりたくはないし、ましてさせられたくないものです。

 日本で、曹洞宗といわれる禅の教えを開いた道元禅師が、中国・宋に留学されたときにこのようなことがありました。

 夏の暑い日に、年取った食事係のお坊さんが椎茸を干していました。道元禅師が、「お年はいくつですか」と聞くと、「六十八歳です」と答えました。

 道元禅師が、「あなたのようなご高齢のお坊さんが、暑い日に、このような雑用をしなくてもいいではないですか」と言うと、そのお坊さんは、「他はこれ吾にあらず」と答えました。他人は他人、自分は自分。自分は自分に与えられた仕事をただするのみという意味です。

 続いて、道元禅師は、「それはよくわかりました。であれば、こんな暑いときにしなくても、涼しくなってからすればよいのではないですか」と問いかけると、そのお坊さんは、「いずれの時をか待たん」と答えました。このことは後にしよう、後回しにしようと言っていたら、大切な時を逃してしまう。大切なのは今だという意味でしょう。

「雑用なんかやりたくない」そう考えてはいけません。そう考えるとますますその仕事が嫌になり、おもしろくなくなるものです。

 ご高齢のお坊さんが道元禅師に言われたとおり、自分は損得など考えずに、自分に与えられた仕事をただするのみ。そして大切なのは今、それを逃したら本当に大切なものまで失ってしまう。そう思ってやるのが一番良いことです。
                         (参考・仏教法話大辞典)

4月16日~他人は他人、自分は自分。2009年04月16日【94】

4月1日~目が覚めたら生きていた

 桜の花が散るときは一斉に、お寺の境内は連日桜吹雪です。

 さて、今テレビで一番人気がある司会者は、皆さんご存じのみのもんたさんです。

 歯に衣着せぬ発言や他者に厳しい批判を展開する司会者として有名ですが、そのスタイルがうけて、出演する番組は常に高視聴率を得ています。

 一日睡眠時間が約三時間の超多忙。今や司会者として不動の地位を築いたみのさんが、いつも大切にしている言葉があるそうです。

 「朝が来た 新しい朝が来た 自分のための新しい朝だ」という言葉です。

 この言葉は、みのさんが大学を卒業しアナウンサーとして放送会社に入社したものの、それほど際立った評価を得ることができず、いったんお父さんが経営する会社に勤め、アナウンサーの仕事を続けるか、その会社を継ぐか不安定なときに、お父さまがみのさんに対しておっしゃった言葉です。

 「おい、お前はどうしたんだ。ほら今日も朝が来たぞ、また新しい朝が来たんだぞ。お前のために朝が来たんじゃないか。粗末にしたらもったいないぞ」

 みのさんは、その言葉を聞いて一念発起して再び放送界で頑張ることを決め、それ以来毎日大切にしている言葉だと、先日テレビでおっしゃっていました。

 私はこの言葉を聞いて、浄土真宗の僧侶で生涯を「いのちの教育」に捧げられた東井義雄先生の、「朝、目が覚めたら生きていた。今日も生かされていた」という言葉を思い出しました。

 朝目が覚めたら生きていたという不思議。もしかしたらこのまま目が覚めなかったかもしれない。そのいのちが今朝もまた生かされていたという感動。その不思議と感動を深く味わうところに、また今日も新しい朝が来た、自分のための新しい朝だという思いがわいてくるのではないでしょうか。

 東井先生はほかにも、「最高に不思議なもの いのち それが今ここにある」など、「いのちのただごとでなさ」を伝える数多くの言葉を残しておられます。 これらの不思議と感動は、日々仏さまに手を合わせ、仏法を聞き重ねるところに開かれる世界であります。

4月1日~目が覚めたら生きていた2009年03月30日【93】

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