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6月15日~われかならず聖にあらず…。
毎年のことですが、梅雨入り宣言があったとたんに雨が降らなくなりました。 さて、先月末に、政治評論家で仏教を学んでおられる宮崎哲弥さんと雑誌の仕事でお会いしました。
大阪のホテルで、一時間ほどお話をしたのですが、宮崎さんはその折、今の世は、社会の正義感覚の中に、大きなゆがみが発生しているように思うとおっしゃいました。
それは、ちょっとした過ちや間違いが起こると、よってたかって叩くという土壌が社会の中にあるということで、マスコミにはその傾向が大変強いということです。もちろん企業の不正や食品偽装などはいけないのですが、一部の会社のことなのにすべての会社がそうであるかのように人々の不安をあおり、結果として社会全体の利益にならないことが多くあるということです。
宮崎さんは、その原因に、社会の奥底に本来あるべき信頼感や安定感が失われているからだといわれます。
毎日の仕事や生活に追われて、自分の立場を守るのに精一杯。自分自身をゆっくり見つめるゆとりなどなかなかないのが、今の社会に生きる一人一人の姿かもしれません。しかし、本当の自分の姿や心の有り様を知ることなくして、お互いの確かな信頼感が築けるものでしょうか。
私たちは、周囲の人に何か間違いや過ちがあれば、すぐにそれを指摘し、問いただしたくなるものです。しかし、仕事においても、家庭生活においても、時と場合によっては、ウソをついたりごまかしたり、また過ちや間違いを犯しながら生きているのが私の現実です。
人間が、私は正しい、私の言うことが正義だと標榜したときに、大きな間違いを犯してしまいます。その典型的な例が、残虐きわまりない戦争です。
仏教を信仰された聖徳太子が、有名な十七条憲法の中で、「われかならず聖にあらず、かれなからず愚かなるにあらず、ともにこれ凡夫ならくのみ」と示されますが、そのような自覚が互いに会ってこそ、まことの信頼感が生まれます。このような時代だからこそ、仏さまの教えを聞かせて頂くことが大切なことと、改めて思うことでした。
6月15日~われかならず聖にあらず…。 | 2009年06月20日【98】
6月1日~人間は生老病死じゃな。
数年前から栽培しているオモトが、勢いよく葉を伸ばし始めました。
さて、先日、鹿児島市内の西本願寺別院にお仕事で行ったときのことです。
私が別院に勤務していたころから、いつもお寺参りをよくされていた仏教婦人のKさんと偶然お会いし、久しぶりにお話をしました。
「実は、二ヵ月前に主人が亡くなりました。主人の病気で大変痛い思いをしました。
しかし、私は苦しむ主人の手を握っていつも、『お父さん、人は生老病死よ。生老病死よ」と、お寺でお聞きしたことをそのまま話しかけていました。
主人は、苦しい中にありながらも、『そうじゃな、人間は生老病死じゃな、そうじゃな』と応えてくれていました。
病状がさらに悪化し、いよいよ主人とお別れが近づいてきました。
私は主人の手を握って、『お父さん、長い間ご苦労さまでした。お世話になりました。お父さんは死ぬんじゃないのよ。阿弥陀さまのお浄土に生まれるのよ。私ももうすぐ参りますから、また会いましょうね』と問いかけると、主人は、『また必ず会おうな。先に往って待ってるよ』と微笑み、やがて息を引き取りました。
私は本当にお寺にご縁があってよかったです。私には、また主人と必ず会える世界があるのですから。私と主人には阿弥陀さまというすばらしい仏さまいらっしゃるのですから…」と、Kさんは、おっしゃいました。
仏さまの教えは、人間のいのちの現実を直視することから始まります。すなわち、この世に生を得たものは、老い、病い、死の苦しみを皆等しく抱えているという現実です。
そのすべての苦しみを見通して、阿弥陀如来という仏さまは、私たちを必ず救わんとお浄土という世界を建立され、いつでもどこでも休むことなくはたらき続けていてくださるのです。
Kさんの目は、その教えを心の奥底からいただいた安心に満ちた目をされていました。
6月1日~人間は生老病死じゃな。 | 2009年06月01日【97】
5月15日~叱り方を知りたい…。
春風に揺れる若葉がキラキラとかがやいて見えます。
さて、五月中旬、鹿児島市内の西本願寺別院で、県内の幼稚園・保育園・新任職員の研修会がありました。
私も研修スタッフの一員として参加しましたが、今年短期大学を卒業し先生になったばかりの初々しい女性たちが、約五十名参加されました。
西本願寺のお寺を母体とした幼稚園保育園の先生ですので、研修会では、浄土真宗のみ教えや、その教えをより所とした幼児教育について、基本的なことを学ぶのですが、その中で、参加者が保育の悩みについて話し合うグループ学習がありました。
そこで、新任の先生方の話を聞いていると、「注意をしても、叱っても、子どもが行動しない」、「どのような表情で、言葉で子どもを叱ったらいいか、叱り方を知りたい」というような声がたくさん聞かれました。
そして、さらにそれらの声に耳をかたむけると、どうも、子どもたちを叱るのが先生の仕事だと思っている人がかなりいるようでした。そして、先生自身が、子どもを自分の思い通りに動かしたいがために叱っているように感じ受けました。
大学を卒業したばかりで経験も少ない先生方ですので、無理もないかもしれませんが、幼い子ども叱るという行為は、その子自身や周りの人に危険が及ぶようなことをしているときや、子ども自身が承知の上で、反社会的な行動をしたときです。
けっして子どもを大人の思い通りにしたいときではありません。安易な叱り方は、大人の欲望と一方的な価値観を、子どもに押しつけているのと一緒です。
子どもは一人ひとり発達状況が違います。家庭環境も違います。そういう環境の中で、子どもの心身はさまざまな影響を受けて育くまれていきます。
私は、叱ることよりもその三倍四倍、一人ひとりの特徴や良さを認めることのできる先生、子どもの限りない可能性を見いだせる先生になって下さいとお願いしました。
5月15日~叱り方を知りたい…。 | 2009年05月16日【96】