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12月15日~求めすぎずにおだやかに…。
十二月も半ば、いよいよ寒さも厳しくなってきました。
さて、今月十四日、十月二十八日にお浄土に参りました坊守の父の満中陰のご法事が、坊守の実家である大阪のお寺で勤まりました。
たくさんの親せきが参集し、いっしょにお勤めをして今は亡き住職・父の遺徳を偲びましたが、ご法事の導師をお勤めくださったお坊さんが、私たち遺族に対して、特に残された三人の娘に対してご法話をくださいました。
お坊さんはご法話の中で、、三姉妹の年代に合わせて、ミュージシャンの吉田拓郎さんが今年五月に作った「フキの唄」という歌を紹介してくださいました。
「日々の暮らしの中で、ふっと息を吸い込むと、人間は果てしない欲張りで、足りないものがある、そこに我慢できなくて、何もかも手に入れたいと思っている」
「僕が子どもだった頃、日本は貧しくひ弱で、お金もなく肩寄せ合って生きていた、ものが足りないのは、みんな一緒だし普通だし、何よりも平和が大切でありました」
お坊さんは、この詩を紹介しながら、自分自身の生活を振り返ってみましょうとおっしゃり、そして、今の日本が忘れ去ったものを顧みることが大切ですねと話されました。
「人が生きる道もまた、おいしいことばかりじゃない、足りなくて満たされぬ日が多くある、何かが足りないときも、そのことを受けとめたい、何もかも求めすぎずに、おだやかに」
最後の詩です。今年一年度のような自分自身だったでしょうか。欲にかられた姿はなかったでしょうか。自己中心の言動行動はなかったでしょうか。お仏壇の前で手を合わせわが身を省みるそこに、本当のおだやかさが恵まれます。
今年一年テレホン法話をお聞きくださり有り難うございました。皆さま、よきお年をお迎えください。来年もよろしくお願い申し上げます。
12月15日~求めすぎずにおだやかに…。 | 2009年12月17日【110】
12月1日~報い求めない無償のはたらき
新型インフルエンザが学校や地域で猛威をふるっています。マスクやうがい、手洗い等、予防には十分気をつけたいものです。
さて、大阪のご住職からいただいたお手紙の中に、「報いを求めない無償のはたらきを徳という。土徳に生かされ、人徳に育まれて、ひとは人となる」という詩が記されていました。
人のいのちというものは、報いや代償を求めることのない無償のはたらきによって育てられ、今の今成り立っているということです。
一番身近なところでは、親子の関係です。特に母親が子どもを育てるのに報いを求めることがあるでしょうか。子どもにご飯を作ったり、身の回りの世話をするのに、何か代償を求める親がいるでしょうか。
私たちが毎日口にする食事も同様です。多くの作物を育む田畑の土は、私たち人間に何か代償を求めることがあるでしょうか。その何の代償を求めることなく、人を育むはたらきを土徳と言います。
北陸の地方には、初物はお寺にという風習があります。また、鹿児島においてもお寺にお参りされるご門徒は、お米をお供えに持ってこられます。これこそが土徳であり、人徳ということでありましょう。
昨今の私たちの生活はとても豊かになりました。便利・簡単・スピードが謳歌され、目には見えない徳のはたらき、土徳、人徳のすばらしさ豊かさを忘れ去り、我欲に振り回されているのが現代人の姿のように思われます。
報いを求めない大いなるはたらきに目覚めることをお諭しくださったのが、浄土真宗の開祖・親鸞聖人であります。ひとが本当の意味で人と成る道であります。
今年も覚照寺の報恩講法要が、十二月十一日、十二日、十三日の三日間勤まります。報恩講法要は親鸞聖人のご法事で、今年は七四八回忌になります。ご門徒の皆様方からお供えされた餅米やお野菜で、おいしいお斎もご用意されます。
どうぞ、お誘い合わせの上、お参りください。
12月1日~報い求めない無償のはたらき | 2009年12月01日【109】
11月16日~いのちの現実知らされて…
先日、お仕事で揖宿の山川町に行きましたが、十一月というのにハイビスカスの花が咲き乱れていました。
さて、私たちは、常日ごろより、いのちは避けられぬ、いのちは予測できぬ、ということをお聞かせいただきます。先般それをあらためて知らされる出来事がありました。
坊守の父親が十月末に、この娑婆の縁がつきてお浄土に参りました。肺がんで、九月に手術は受けたものの進行が早く、享年七十五歳でありました。
私と坊守は、仕事の合間を見つけては坊守の実家である大阪に飛び、病院にお世話に行きました。そして、義父がまだ話ができる間に、孫である私の子どもたちも連れて行きました。
特に、小学四年になる長男は、七人いる孫の中唯一の男の子で、義父も大変かわいがっていましたし、息子も義父が大好きで、お見舞いに行っても、義父の車いすを押して散歩したり、ベットに二人並んで座って、楽しく会話をしていました。
病状がいよいよ悪化し、私と坊守は再び大阪に駆けつけましたが、子どもたちは学校もあり、最後の時が今日か明日か明後日かわかりませんので、連れて行くことができませんでした。そして十月二十八日の明け方、いよいよ息が途絶え、お念仏とともにお浄土に参りました。
二十八日の夕刻、私と坊守は、大阪から、鹿児島にいる息子に義父の死を知らせました。「大阪のおじいちゃんはね、頑張って頑張って、最後まで精いっぱい頑張ったけど、とうとうお浄土に参られたよ。おまえに有り難うと、言ってね」。
息子は、「なんでや」と叫んで泣き崩れました。そして、「また元気になって、散歩しようと約束してたのに…」と、言いながら泣きました。
いのちのこと、「なぜ、どうして」ということが必ずある。いのちのこと、「あんなに固い約束をしてたのに…」ということが必ずある。それがいのち現実なのですね。
義父はすでに三七日を迎えますが、長男は毎夜、お仏壇の前で、お念仏を称えてお参りをする日々です。
11月16日~いのちの現実知らされて… | 2009年11月15日【108】