最近の記事
2月1日~水が無くなって初めて…。
一月が一気に過ぎていきました。
さて、日本時間で今月十三日の朝、カリブ海のハイチでマグニチュード七,〇の大地震が発生しました。
首都ポルトープランスは壊滅的な打撃を受け、この地震による死者は十七万人以上、被災者は総人口の三分の一に相当する約三百万人といわれ、さらに広がる様相を見せています。
地震から一週間たって、ようやく食糧や医療品などの救援物資が被災者の手元に届き始めたばかりですが、食料品の略奪や治安の悪化、被災で両親らを亡くした孤児の人身売買や臓器売買の横行なども報道され、誠に胸が締め付けられるような思いがします。
このような状況にあって、遠くに住む私たちにはささやかな募金活動しかできませんが、と同時に、私は十五年前の一月十七日に発生した阪神淡路大震災を思い起こさずにはおれません。
当時、鹿児島別院の職員だった私は、被災者のお手伝いにと、他の職員と一緒に神戸に向かって出発し、たどり着いたのは十九日の夜のことでした。
神戸別院の仮本堂には、たくさんの棺が並び、そのような中で鹿児島から運んだ水や毛布や食料をおわけしましたが、その時耳にした、被災されたご老人のお言葉が今でも心に残っています。
「地面が揺れて、初めて地面が揺れんことの有り難さがわかった。水が無くなって、初めて水があることの有り難さがわかった。私は本当の有り難さが今までわかっていなかった」
私たちは、常日ごろからものの有り難さを口にはしますが、本当はわかっていないのかもしれません。目の前から本当に無くなるという状況に出会わないと、本当の有り難さがわからないのかもしれません。
ハイチの被災地にはできるだけの支援を心がけると共に、自らの日暮らしの有り様を、今一度省みたいと思います。
2月1日~水が無くなって初めて…。 | 2010年01月31日【113】
1月15日~その獣の皮と杖を…。
昨年より、桜島の降灰に見舞われている鹿児島、年始め久しぶりに積雪まで経験しました。
さて、今月十六日は、浄土真宗の開祖・親鸞聖人の七四九回忌のご命日で、いよいよ来年は京都のご本山で、『七五〇回大恩忌法要』が勤まります。
この親鸞聖人のお姿が表された絵に、「安城の御影」というものがあり、聖人が八十三歳の時、絵師の朝円が書かれたものといわれます。
黒染めの衣と黒い袈裟を身につけ、畳の上にお座りになる姿ですが、よく見るとお体と畳の間には獣の皮が敷いてあり、足元には杖がななめに置いてあります。
歴史上、世の中にはたくさんの高僧や聖者がおられ、その多くが美しい衣を身にまとい、立派なイスや畳に凛として座っておられるのに、聖人の絵はあまりにも粗末で質素すぎる思いがします。
これについて、以前、僧侶の先輩からある逸話をお聞きしたことがあります。
ご高齢になった親鸞聖人に対してお弟子方が、お元気な内にその姿を絵師に書いてもらおうということになり、申し出をされました。
聖人はその申し出を了承され、お弟子方はきれいな畳を用意して、我が師匠をその上へと案内しました。
すると聖人は、畳の上にそばにあった獣の皮をあえて敷き、自分の杖を足元に置いて、それを絵師に書かせたというのです。
これは、親鸞聖人が自分自身のことを、決して私はあなた方の師匠などではない。まして高僧と言われるような者でもない。皆と共に阿弥陀如来のみ教えを聞き、信心をいただき、共に浄土の道を歩ませて頂く年老いた一人の人間でしかないということを、そのお姿をもって示されたものだというのです。
一人の人間として老病死のいのちの現実に悩み、煩悩をかかえた人生に苦しみみぬかれた聖人が説かれた阿弥陀の教えだからこそ、私はその後を慕うことができるのです。
聖人のご命日に、共にみ教えを聞き、共に救われる道を問い訪ねて行かれたその姿勢に学びたいと思います。
1月15日~その獣の皮と杖を…。 | 2010年01月16日【112】
2010年1月1日~何がおきても不思議ではない
あけましておめでとうございます。二〇一〇年・平成二十二年の年明けです。 覚照寺では一月一日元旦の朝、年が明けて最初の法要「修正会」をたくさんのご門徒方とともに勤めました。 今年も「心の電話」をよろしくお願い致します。
さて、先日読んだ本の中に、「戦後家庭の中で、大きくなったものはテレビである。逆に小さくなったもの、また無くなってしまったものがお仏壇である」とありました。
テレビは、正しいこと誤ったことを含めありとあらゆる情報を提供してくれますが、人はそれを一番大切にして、逆にお仏さまを敬い大切にする生活が薄れつつあるということでしょうか。
一昔前までは、家の中でお仏壇を中心にした生活が、日本のどこにでもありました。他人の家を訪問したときはまずお仏壇にお参りしてから、会話をはじめました。毎日ご飯をいただく前には必ずお仏壇にお参りしてからいただきました。人様から頂き物をしたときは、御仏壇にお供えしてから封を開けました。家族間の大事な話をするときは仏間で必ず行いました。
これは、すべて何事も仏さまを中心にした生活を送るということで、私たち一人ひとりのいのちが、ありとあらゆるいのちとつながり、生かされているということに気づかされ、それを確かに受けとめていくことが形に表れたものです。
もっと簡単に言うと、お仏壇の前に座り手を合わすということは、「人間は自分一人で生きているのではない」ということを体と心で受けとめていくということです。そして、さらには人として生まれたものは、決して周囲の人たちの信頼を裏切ってはならないという、人間としての責任が生まれてくるのです。
「世の中からお仏壇がなくなると、何がおきても不思議ではない」と先人は諭されます。今年一年また、お仏壇を中心にした生活を送りましょう。
2010年1月1日~何がおきても不思議ではない | 2009年12月30日【111】