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3月15日~帰る世界がありますか?

 「暑さ寒さも彼岸まで」のとおり、春のお彼岸が近づきようやく春らしくなって参りました。

 さて、お彼岸は春と秋の二回訪れますが、特に中日の春分の日と秋分の日は、太陽が真東から昇り真西に沈みます。仏教の修行法の一つに、日想観というものがあり、「日のいにし方」つまり太陽の沈んでいく方向に、私たちが命を終えて帰るべきお浄土の世界を思う修行です。

 この仏教の慣習が一般の方々にも広まって、私たち日本人はお彼岸という行事をとても大切にしてきました。

 このお彼岸の行事の意義を一言で申しますと、「あなたは自らの命の帰る世界がありますか?」ということです。そして、「その世界はどういう世界かご存じですか?」ということです。

 例えば、子どもたちが、朝学校に元気に家を出て行きます。学校で一生懸命勉強やスポーツに励み、また友達と遊んだり時にはケンカもします。なぜ、子どもたちが元気に安心して学校で過ごせるかというと、必ず帰るところがあるからです。必ず「おかえり」と暖かく迎えてくれる人がいて、安心して休む家があるからです。

 大人だって同じです。私たちが、安心して外で仕事をしたり、時には楽しい旅行をしたりできるのも、必ず帰る家があるからです。安心できる場所があるからです。

 つまり、お浄土とはそのような世界です。私たちが命終わるときに帰る世界、安心して参ることのできる世界、私たちをあたたかく迎えてくださる仏さまがいらっしゃる世界です。

 仏教では、私たちの命を「無常」という言葉で表します。いついかなる時にどうなるかはかれない命ということです。その無常の命を持った私が、いつでも安心して帰る世界を持つのと持たないのでは、人生に大きな違いが出てきます。確かな安住の家を持たない人生は、心配事が多く、安定性のない人生になりがちです。

 「あなたには、命の帰る世界がありますか?」。お彼岸にたずねるべき人生の大切な問題です。

3月15日~帰る世界がありますか?2010年03月16日【116】

3月1日~手伝ってやろうか。

 今年もお寺の中庭になる岩ツツジが、鮮やかな紫の花を咲かそうと、たくさんのつぼみを抱えています。

 さて、ある中小企業の社長さんが、懇話会の席で話された「幼い頃の思い出」を紹介します。

 私が小学生の頃、夏休みの宿題をしているときです。母は、風呂の水くみをしていました。当時の風呂は五右衛門風呂で、水道がない時代ですから、井戸から何回も水を汲んで風呂まで運ばなければなりません。女性にとっては大変重労働です。

 そこで私は、母に「母さん、手伝ってやろうか」と言いました。

 すると、私の母は「いらん」と一言、そっけない返事でした。

 その後、風呂の水くみを終えた母は、私に言いました。

 「おまえはさっき母さんに、『母さん、手伝ってやろうか』と言ったね。母さんはおまえが、『母さん、手伝わせて下さい』と言ってくれたらどれほどうれしかったか。『手伝ってやろうか』というような気持ちで母さんは手伝ってほしくなどなかったから、母さんは『いらん』と言ったんだよ」

 あの時、私の母は、私に大事なことを教えてくれました。あの時母が教えてくれたのが、仏教の布施の心だったのですね。還暦を過ぎた今になって、ようやく母が教えてくれたことがしみじみと有り難く感じます。

 小学校しか出ていない母でしたが、昔の日本人は、人生で大切なことをたくさん知っていました。偉かったですね。

 このお母さんが教えられたとおり、仏教の布施の心とは、相手がかわいそうだから、困っているから、大変だから、助けてやる、してやる…というものではありません。

 「してやった」、「助けてやった」という心には、必ず「いいことをした」、「感謝してほしい」「お礼を言ってほしい」という心がわいてきます。それでは、布施にはなりません。

 「手伝わせて下さい」。我がはからいの心を捨てて自ら進んでさせていただく。これが本当の布施の心です。
(参考・仏教法話大辞典)

3月1日~手伝ってやろうか。2010年02月28日【115】

2月15日~あまりにも夢中になって…

 二月もはや半ば、逃げるように毎日が過ぎていきます。

 さて、バンクーバー冬季オリンピックが華やかにスタートしました。史上最多の八十二カ国、約二,六〇〇人の選手が集まり、十七日間にわたって競技を繰り広げます。

 さっそく二日目に、フリースタイルスキー女子モーグルで、期待の上村愛子選手が、四度目の五輪に臨みました。

 上村選手は期待通りのすばらしい滑りを見せてくれましたが、結果、四位に終わり、残念ながら、またしても悲願のメダルには手が届きませんでした。

 私も家族と共にテレビで応援し、健闘をたたえましたが、テレビが終わった後に坊守が、「恥ずかしいことですね」と私に言いました。

 その言葉のわけを坊守に聞くと、当初、上村選手は決勝で二位に食い込み、その後、予選上位四名の競技の結果を待つことになりました。次の選手はあまりにもスピードが出すぎて転倒してしまいました。その時、坊守の心の中に、「やった、上村選手がメダルに一歩近づいた。よかった」という心がわいたと言います。

 次の選手も、最後のジャンプの着地がうまくいかずに転倒してしまいました。その時、坊守の心の中に、「やった、よかった。もう一人で上村選手にメダルが届く」という心がわいたと言います。

 考えると、失敗をした他国の選手も上村選手と同様、この数年間過酷な練習に耐え、それを見守り応援する家族、友人、たくさんの方々がいます。

 しかし、日本の上村選手を応援するがあまりに、他国の選手のその苦労や応援する周囲の方々の姿が見えなくなり、あろうことか失敗を喜ぶ心がわいた。その自らの心を、坊守は恥ずかしいと言ったのです。

 坊守だけではありません。私の心の中も同様でありました。

 我が国の選手を応援することは大切なことですが、あまりにも夢中になって、他国の選手の失敗を期待したり喜ぶことは誠に浅ましいことです。日本の選手同様に、他国の選手の健闘もたたえる心の広さを持ちたいと思うことです。

2月15日~あまりにも夢中になって…2010年02月14日【114】

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