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9月1日~なんまん、なんまん、ありがとう
酷暑の八月が終わり、新涼の九月に入りました。
さて、お寺では八月に、仏教壮年会や婦人会の方々にお手伝いを頂き、小学生のキャンプを二回行いました。それはひとえに、幼い頃、お寺で楽しく有意義な思い出を作ってほしいことに他なりません。
京セラという大きな会社を設立し、現在名誉会長である稲森和夫さんも、著書「生き方」の中で、幼い頃の思い出を語っておられます。
稲森さんは鹿児島県出身で、浄土真宗にご縁のある家庭で育たれました。稲森さんの幼い頃はあの隠れ念仏の習わしが残っており、日没後の暗い山道を、提灯の明かりを頼りに、お父様の後を必死でついて行った思い出があるそうです。
登った先には一軒の家があり、押し入れの中に立派な仏壇が置かれていて、その前でお坊さんがお経を唱えており、その後ろに正座をさせられたそうです。
読経が終わると、一人ずつ仏さまにお線香を上げて拝むように教えられ、その時、お坊さんは稲森さんに、「これから毎日、『なんまん、なんまん、ありがとう』と言って、仏さんに感謝しなさい。生きている間、それだけすればよろしい」と言われたそうです。
稲森さんは、「それは私にとって、最初の宗教体験とも言える印象深い経験でしたが、その時に教えられた感謝することの大切さは、私の心の原型を作ったように思います。そして実際、いまでもことあるごとに、『なんまん、なんまん、ありがとう』という感謝のフレーズが無意識のうちに口をついて出たり、耳の奥によみがえってくるのです」とおっしゃっています。
稲森さんの言葉は、幼い頃の体験がいかに人の心を育むのか、その大切さを教えてくださいます。昔から「仏法は若きときにたしなめ」とも、「仏法は毛穴から染みいる」とも言われます。幼い子どもたちに、お寺とのご縁を、仏さまとのご縁をたくさん結ぶ。仏さまからお預かりした私たち大人の大切な務めであります。
9月1日~なんまん、なんまん、ありがとう | 2010年09月01日【127】
8月16日~褒めて認めてもらってこそ
今年の初盆法要は、例年になく、たくさんの方々がお参りくださいました。
法要では、それぞれのご先祖方を偲びつつ、すべての方々をお浄土へとお救いくださる阿弥陀如来に感謝し、『仏説阿弥陀経』というお経を拝読しました。
そのお経の中に、東西南北と上下にいらっしゃるたくさんの仏さまが、浄土真宗のご本尊である阿弥陀如来の、すべてのものを救わんとするその功徳が真実であることを表し、念仏申すものを、すべての仏さまがお護りくださるという段があります。
たくさんの仏様の名前が出てきて、繰り返しそのことを念を押すように示されているのですが、私はそこを拝読するたびにとても有り難く思うのです。
以前、お寺の本堂などを、日本の伝統的な技法をもって建てる宮大工の方からお聞きしたのですが、「私たちの仕事は、建築の依頼を受けた施主から満足してもらわねばならないのは当然ですが、同じ大工の仕事をする同業者から褒めてもらい認めてもらってこそ一人前です」と、聞いたことがあります。
つまり、同じ仕事、同じ勤めをするものから認めてもらうことが、この上ない保証になるというのです。
尊い仏さまのお救いについて、世俗的な話を出して申し訳ないのですが、しかし、私は同様のものを感じるのです。
一時も休むことなく、たくさんの仏さまがこの私を救わんとはたらいてくださっている。そのたくさんの仏さまが口をそろえて、阿弥陀如来のお救いのはたらきこそが真実であると、褒め称え認めておられます。
そして、そのお心を頂き念仏申すものを、その多くの仏さまが必ず護ると誓ってくださっているのです。これ以上の保証がどこにありましょうか。
私たちはそのお心を素直にいただいて、ただ念仏申すのみであります。
8月16日~褒めて認めてもらってこそ | 2010年08月16日【126】
8月1日~失われゆく母の徳と姿
炎天下、スイカがおいしい季節です。
さて、先日、大阪市のマンションで三歳の女の子と一歳の男の子、二人の遺体が見つかるという誠に痛ましい事件がありました。逮捕されたのは、二十三歳になるその子らの母親でした。
母親は警察の取り調べで、四年前に離婚をし、今年一月から大阪の風俗店で働くようになり、「そのころから、ごはんをあげたり、お風呂に入れるのが嫌になった」と心境の変化を話し、自分の時間が欲しいと、子どもを残し部屋を出たのは六月下旬、「家を出て一週間ぐらいしてからは死んでるかもしれないと思っていた」と供述しているそうです。
二人の幼児は、ゴミが散乱する部屋で、裸のまま寄り添うように亡くなっていました。食べ物も与えられず、お風呂にも入れず、着替えもない。幼い子どもが飢えと渇きの中で苦しみ息絶えていく姿を思うとき、誠に胸がしめつけられる思いです。
きっと子どもたちは、計り知れない苦しみの中にあっても、お母さんを捜したはずです。お母さんを呼び続けたはずです。
警察では、離婚などで生活状況が一変する中、孤立感や子育てのストレスを深めたことや、近くにその若い母子を支える人がいなかったことなど、事件の背景を調査中ですが、いずれにせよ、実の母親が二人の幼い子どもを置き去りにした事実に、言葉には表せないむなしさを感じます。
仏教で仏さまのお徳をお伝えするのに、昔から「親さま」とか、「み親のように」と表現しました。それは、仏さまがいのちあるすべてのものを常に心配し、願い、何があろうとも必ず救わんとするそのお姿が、まるで我が子を慈しみの心で、あたたかく優しく包む母親の姿と似ているからです。
その母親の徳と姿が、社会から失われつつあることを誠に悲しく思います。二度とこのような事件が起こらないことを、心から願います。
8月1日~失われゆく母の徳と姿 | 2010年08月02日【125】