こころの電話

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5月1日~親ならではこその姿を…。

 鯉のぼりが五月晴れの空を泳いでいます。

 さて、先月の二十八日は東日本大震災発生から四十九日目で、被災地の寺院や墓地では法要が営まれ、八十四人が死亡・行方不明になった宮城県石巻市の大川小学校でも合同供養式が勤まりました。そして、その直後、行方がわからなかった六年生の狩野愛さんのご遺体が、学校近くのお寺のがれきの中から見つかり、ご両親が号泣される姿がニュースで流れていました。

 震災直後から、被災地で愛さんを探すご両親の様子は報道されていましたが、特にお母さんが、愛さんが気づいてくれるようにと、愛さんが愛用していた毛糸の帽子をかぶり、来る日も来る日も涙で目を腫らしながら、わが子を探し続ける姿は、誠に切なく心が痛みました。

 ご遺体の発見は合同供養式が終わった直後、ズボンやベルト、そして足につけていたミサンガが登校したときと同じもので、ご家族が愛さんと確認し、深い悲しみの中にも、願いがかなったご両親の姿が印象的でした。

 私は、あのがれきの中を、わが子の名を呼びながら、来る日も来る日も探し求めるお母さんの姿に、親ならではこその姿を見ました。親が子にかける慈悲の心を感じました。

 慈悲の慈という字は「呻き」という意味です。悲という字は、心が引き裂かれるような苦しみという意味です。仏さまの慈悲の心とは、呻くような私たちの苦しみ悲しみから救わずにはおれないという、親ならではこその心であり、願いです。

 我が子を失った親の悲しみ苦しみは私にははかりしれませんが、少なくとも、わが子を捜し続けるお母さんの心は、愛さんが受けた苦しみ悲しみと共にあったと思います。心は一瞬たりとも離れることはなく、昼夜常に寄り添い愛さんを励ましておられたと思います。

 合掌と共に、深く親の慈悲の心を味わうことです。

5月1日~親ならではこその姿を…。2011年05月01日【143】

4月16日~火宅無常の厳しさ、はかなさを…

 春風に境内の桜の花もすべて散ってしまいました。

 さて、京都・西本願寺では四月九日、いよいよ「親鸞聖人七五〇回大遠忌法要」がスタートしました。

 私もお参りさせていただきましたが、美しくお荘厳された御影堂には、全国よりあふれんばかりのご門徒方が参集し、およそ百八十人の出勤僧侶方により、厳かに勤まりました。

 法要の後、御門主様はご挨拶の中で、まずこの度の大震災で犠牲になられた方々に哀悼の意を表されました。

 そして、この法要は、「私が、聖人のお勧めによってご本願、念仏に生きることの意味を確かめ、身を引き締めておつとめし、この思いを持って御恩報謝の生活に励むことが大切です」と、私たち一人ひとりがこのご法要に遇う意義を述べられました。

 そして、お師匠である法然上人との出遇いによって、親鸞聖人にお念仏の道が開かれたことに触れられ、「私たちには、『親鸞聖人いまさずは』と置き換えられるのではないでしょうか。煩悩愚足の迷いの人生を歩む私が、宗祖にあうこと、仏法にあうこと、そしてご本願を信じ念仏申す身になることです」とお諭しくださいました。

 この世は火宅無常の世界です。火宅とは火の家と書きますが、この世のことはすべて空言、戯言で、真実はない。そしていつどうなるかわからない不確かな世の中ということです。

 この度の大震災によって、私たちはその火宅無常の厳しさ、はかなさを知らされました。決して人ごととして切り離すのではなく、私たち一人ひとりのいのちの問題として受け止めることが大切です。

 御門主様は、「被災地支援の思いと共に、南無阿弥陀仏とお念仏申して、精いっぱい過ごさせていただきましょう」と述べられました。

4月16日~火宅無常の厳しさ、はかなさを…2011年04月16日【142】

4月1日~行いによって初めて見える。

 春のお彼岸が過ぎたというのに、朝夕はまだ冷たさが残ります。

 さて、先月十一日の東日本大震災発生から既に三週間が経ちました。三月末の時点で死者、行方不明者が計二万七六〇三人、また現在も十七万人以上の人が避難所での生活を送っておられ、さらに福島第一原発事故の復旧作業も大変心配されるところです。

 この大震災発生より、テレビでコマーシャルを流す業者が自粛したため、その代わりしきりに流されたのが、ACという民間の広告ネットワークのCMでした。

 その中でひときわ人々の注目を集めたのが、「心は誰にも見えないけれど、心遣いは見える。思いは見えないけれど、思いやりは誰にも見える」という詩です。 電車の中でお年寄りにイスを譲るシーンや、階段を上るお年寄りを若者がやさしく寄り添い手伝うシーンで流れます。

 これは詩人の宮澤章二さんの詩だそうですが、本当はこのあとに、「あたたかい心も、やさしい思いも、行いによってはじめて見える」という言葉があるそうです。

 宮澤さんはこの詩を通して、思いを行為に表すことの大切さを述べておられますが、仏教の開祖であるお釈迦さまも今から二,五〇〇年前に同様のことをおっしゃっています。

 「人は、行為によって卑しい人ともなり、行為によって貴き人ともなる」

 この大震災によって、多くの尊い命が失われ、家族や友人、家や町や財産を一瞬のうちになくし、悲嘆にくれた多くの方々が今も苦しみの中にあります。

 日常を顧みるとき、自分自身、貴き人になることは難しく思いますが、でも、被災地に心を寄せるとき、その思いを行いに表すことは可能です。

 家庭の中では節電節約、また義援金活動や物資の送付、また子どもを含めて家族で何ができるか話し合うことも大切でしょう。一人ひとりでできるところから、その心を行為に、形に表しましょう。

4月1日~行いによって初めて見える。2011年04月02日【141】

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