こころの電話

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8月1日~蜘蛛の糸より揖保の糸?

 今年の夏は、節電のためエアコンではなく、扇風機がよく売れているそうです。

 さて、覚照寺では毎月、小学生の子どもたちを集めてお経や仏前での作法、また仏さまの教えを学ぶ学校を行っていますが、先般、その場に集まった三十人ほどの子どもたちに、私は問いかけました。

 「今年もお盆が近づいてきましたが、お盆と言えば有名な『蜘蛛の糸』のお話がありますが、皆さんは知ってますか」

 「知ってます」という返事はありませんでした。その代わりにある男の子が、

 「僕は、蜘蛛の糸は知らないけれど、揖保の糸は知ってるよ」

 揖保の糸とは有名なおそうめん。私は思わずズッコケそうになりました。

 蜘蛛の糸とは芥川龍之介の短編小説で、重罪を犯して地獄で苦しむカンダタを、お釈迦さまが救おうと極楽浄土の世界から蜘蛛の糸を垂らし、カンダタはそれをよじ登って助かろうとしますが、後から後からわれ助かろうと続いてくる地獄の住人を蹴落とそうとして、結局糸が切れて、カンダタもろともすべての人々が再び地獄に堕ちてしまうというお話です。

 私たちが幼い頃は、お盆が来ればこの話をよく聞かされたものです。カンダタが生前、蜘蛛の命を救う場面を聞いて、どんな小さな生き物にでも人間と変わらぬいのちがあることを感じました。カンダタが後から続くものたちを蹴落とす場面では、自分だけが助かろうとする自己中心的な行為に憤りを感じ、互いにたすけあい支え合うことを学びました。

 最近の子どもたちは塾やスポーツクラブなどで、大人よりも忙しいとも聞きます。子どもたちには、そういうお話が家庭の中では伝わりにくくなっていることを感じることでした。

 今年もお盆が近づいてきました。子どもさんやお孫さんが帰ってこられたら、ゆっくりとしたお盆を過ごしましょう。そして、家族そろってお仏壇に手を合わせ、ゆっくりと語り合う時間を設けるよう心がけたいと思います。

8月1日~蜘蛛の糸より揖保の糸?2011年08月03日【149】

7月16日~せめてその時だけは…

 夏に吹く熱くて乾いた風を温風と書いて、あつかぜと読みます。

 さて、仏事に関わる仕事をしていると、時折残念な言葉やお話を耳にすることがあります。

 先日、覚照寺のご門徒のご兄弟が、遠方でお亡くなりになり、そちらの葬儀社にお葬儀を依頼されたそうです。

 滞りなくお葬儀が勤まり、出棺して火葬場に着き、ご遺体を火葬の釜にお見送りをした後のことです。

 葬儀社の方が、「それでは、火葬が終わるまでに約二時間ほどかかりますので、近くにお寿司屋さんがありますから、そこでお食事を取ってらしてください」とおっしゃったそうです。

 それを聞いたご遺族のひとりが、「お寿司屋さんですか?このようなときにそれはちょっと…」

 それに対して葬儀社の方は、「そう気にされないでいいですよ、最近は皆さんそうされますよ」

 葬儀社でお弁当が手配できないのか、近くにお寿司屋さん以外の食堂がないのか、どのような理由があるのかわかりませんが、大切な方を亡くし、悲しいお葬儀の後、しかも荼毘に付されている直中に、生き物で、生ものを頂くという感覚。またそれを、最後のお別れのお世話をする葬儀社の方がお勧めになったことを、私はとても残念に思いました。

 少し前までは、身内の大切な人を亡くしたとき、通夜、葬儀、初七日ほどまでは、身近な家族はお精進の食事で過ごしたものです。

 お精進とは、大切な人を失った時に、せめてその時、その期間だけは、同じいのちを持つものの、同じ血を流すもののいのちを奪うことを控えようという、仏教徒の慎みです。

 時代とともに、先人たちが伝えてくださった行為が薄れ、尊い心が失われていくことを残念に思いますが、せめてお葬儀の日当日ぐらいはお精進でお食事をというのは無理なことでしょうか。共々に考えてみたい事柄です。

7月16日~せめてその時だけは…2011年07月16日【148】

7月1日~お念珠を手にかけるとき…

 例年より二十日早く入った梅雨も、例年より二十二日早く明けました。いよいよ本格的な夏到来です。 

 さて、お寺の保育園や幼稚園の職員間では、今、腕輪念珠が流行しています。 最近、鮮やかな色とりどりのタマなども開発されて、ファッションの一部となっているようです。

 多くの若い方々が日常的にお念珠をつけて、少しでも仏教に心を寄せてもらうことはとても有り難いことですが、お念珠を身につけることによって願い事が叶うとか、御守りになるとか、魔除けになるとか、という受け止め方は、お念珠本来の意味とは異なるようです。

 基本的にお念珠のタマは百八つ、人間の煩悩の数だといわれます。一般の方が持つお念珠は略式化されて、五十四個、三十六個、二十七個ほどのタマで作られているのがほとんどです。

 それらの煩悩のタマは一本の糸でつながれて、一番下に房のついたやや大きめのタマがあります。それを「母の珠」と書いて母珠(もしゅ)といい、この母珠が、私たちみんなの親さまである仏さまを表しているそうです。

 つまりお念珠は、仏さまのタマに、私たちの煩悩のタマがつながれていることになります。そして、それをつなぐ糸を経(けい)といいますが、それはインドの言葉でお経を表すそうです。

 あらためてお念珠を手にとって見てみましょう。一つ一つのタマは、私たちが日々、怒ったり、愚痴ったり、欲にかられたり、また悲しんだりする煩悩の一つ一つです。しかし、そんな煩悩を持つ私たちを、仏さまは見過ごすことなく、見捨てることなく、お経の教えでつなぎ、大きな智慧の眼で見守り、慈悲の心で包んでくださっています。

 合掌してお念珠を手にかけるとき、その仏さまのお心を味わいましょう。

7月1日~お念珠を手にかけるとき…2011年07月01日【147】

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