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3月1日~なんてすばらしい国なんだ

 新型コロナは大分収まってきましたが、気を緩めずに生活をしましょう。

 さて、先日ラジオで和歌山県の山﨑浩敬さんが銀行のコンクールで受賞された作文をお聞きしました。とても素晴らしい内容でしたので主要な部分を紹介させていただきます。

 これは「あたたかな小さい手のリレー」という題で、山﨑さんは、人生中途にて視覚に障害を持つことになり、仕事を休み復職のため一年間の訓練を受けて復帰されました。白杖をついてのバスの通勤で不安でいっぱいです。そのバスには和歌山大学附属小学校の児童が乗っていたそうです。

 「ある朝、『おはようございます』というかわいい声が聞こえました。「バスが来ました」また声が聞こえました。そして、私の腰のあたりに温かい小さな手があたりました。そして、バスの入り口前まで誘導してくれて、『階段です』と言い、背中を入り口方向に押し出してくれました。座席に座っている子に向かって、『席に座らせてあげて』と言ってくれました。感動です。

 私は遠慮しながら、『いいの?』と言うと、『座って』と返事が返ってきました。そして三年が過ぎ、その子も中学生になりました。でも妹が、その手引きを引き継いでくれて、私をバスに乗せてくれています。

 バスを降りる時も同じです。バスを降りると歩道を歩く私の腰を小さな温かい手で押してくれて、点字ブロックの上まで誘導してくれます。私は、大きな声で『ありがとう。車に気を付けてね』と言っていつも頭を下げます。

 そして、彼女も小学校を卒業しました。でも毎朝、背中を押して誘導する彼女を見ていた周りの子供たちにこの作業は引き継がれています。今では、誰かが背中を押す誘導をしてくれています。

 温かい小さな手の小さな親切が、次々と受け継がれています。

 あれから十五年以上、私も退職まであと一年と半年、失明をした時は絶望のどん底でしたが、温かい手の小さな親切のリレーで、退職まで何とか頑張れそうです。」

 仏教では施しのことを布施と言いますが、財力も物も持たずにだれもができる施しを無財の布施といいます。それが自然に受け継がれていることにに感動を覚えます。山﨑さんは、作文の最後に「なんてすばらしい国なんだ」とおっしゃっています。

「小さな助け合いの物語賞」受賞作品より一部転載
https://www.shinyokumiai.or.jp/overview/about/writing11/000635.html

3月1日~なんてすばらしい国なんだ2021年03月06日【375】

2月16日~すべてのもののしあわせを願う

 先日十三日の夜、福島県沖を震源とする大きな地震が発生しました。

 昨年来よりコロナ禍にあって、「このような時期に自然災害だけは起こらないように…」とことあるごとに願っておりましたが、自然の前にはそのような思いは通用しません。被災された皆様に心よりお見舞い申し上げます。

 さて、仏道を歩むもの、仏さまのみ教えをいただくものの生き方。その目的は、すべてのものがしあわせになることです。

 いや、仏さまの教えにご縁のない人でも、すべてのもののしあわせを願う人はたくさんおられるでしょう。

 しかし、そのことを真剣に思えば思うほどその難しさも感じます。

 この度の地震発生を知ってから、東北にお住まいの方は皆大丈夫だろうか、津波は起きていないだろうかと直ぐさま案じました。しかしその次には、私の知人や友人など自分と関係のある人は大丈夫だろうかとその心配の領域は狭まりました。

 逆に、その地域に直接縁のある方がいない場合には、その心配のレベルは少し低下してしまいます。

 もしもその時、自分の身の回りに別の急ぎの要件があったなら、自分のことで精一杯で人の心配やしあわせどころではありません。

 人間の心は、自分の身の回りで何もないと一見穏やかで広く多くの人々のことを願っているようですが、自分の周辺で何かことが起きると自分と他人と直ちに区別をし、他人に対する思いや願いは吹っ飛んでしまいます。

 悪い人ではありません。わざとでもありません。思いやりの心がないわけでもないのですが、しかし、いつもどんなときでも、すべてのもののしあわせを平等に願うことは難しい。それが人間の限界だと思います。

 本当に、真に仏道を歩むことの難しさを感じます。

 しかし、そのような私たちだからこそ、仏道を歩む、仏さまの教えを常に聞くことの意義があります。仏さまの願いこそ、すべてのもののしあわせだからです。

2月16日~すべてのもののしあわせを願う2021年02月16日【374】

2月1日~有り難さがわかるとき

 春の到来を待ち望んでいる顔を「春待ち顔」と言いますが、今年は皆が「コロナ収束待ち顔」ではないでしょうか。

 さて、一月十七日は阪神大震災の日でした。二十六年前の午前五時四十六分に発生。鹿児島から被災地へ支援物資とお見舞いをお届けに出向いたことを思い返しながら、早朝本堂で犠牲者の皆様を追悼してお勤めをしました。

 当時、被災地でお話をしたおじいさんが、「地面が揺れて地面が揺れんことのありがたさがわかった」、「水道が出んようになって、初めて水道のありがたさがわかった」とのお言葉を毎年思い出します。

 私たちは、ともすると日々の生活を当たり前と思いがちです。

 毎朝顔を洗って食事ができて、仕事ができて学校に行けて、お客さんが来てお商売ができて、たっぷりのお風呂につかって夕食がとれて、毎日すべてのことが当たり前のように過ぎていきます。

 病気になれば薬局で薬を買って、あるいは病院に行って治って当たり前と思いがちです。

 果たしてそうでしょうか。今日一日、私が生きていること自体が当たり前ではないのかもしれません。

 私は人間に生まれたいと思って生まれてきた人がいるでしょうか。無数の人の縁によって恵まれた命です。食糧難に遭うこともなく、事故に遭うこともなく、戦争に遭うこともなく、地震や水害に遭うこともなく、今の今、私は生きていますが、これは果たして当たり前なのでしょうか。

 新型コロナウイルス感染の収束が未だ見えない日々の中で、当たり前と思っていた日々が当たり前でなかってことに、あらためて気づかされます。

 当たり前と思って暮らしてきた一つ一つが、有り難いことであることを心に刻みつつこ、慎みと感謝の生活を送りたいと思います。

2月1日~有り難さがわかるとき2021年02月01日【373】

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