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3月16日~見つかるか見つからないか…
うららかな春を謳歌できる季節となりました。
さて、「そんかとくか人間のものさし うそかまことか仏様のものさし」とは、有名な詩人・相田みつおさんの言葉です。この言葉には、どのような意味があるのでしょうか。
お寺のこども園で、昔このようなことがありました。
年長児さんのA君は、ある日家族でドライブに出かけました。運転はお父さん、助手席にお母さん、後部席にA君と小学2年生のお姉さん。久しぶりのドライブで4人は車中で歌を歌ったり、しりとりをしたり、なぞなぞをしたりとても楽しいドライブでした。
突然お母さんが、「お父さん赤信号、危ない、ブレーキ」と叫びました。お父さんが、楽しい話に夢中になりよそ見をして信号に気づかなかったのです。慌てて急ブレーキを踏みましたが間に合わず、車は赤信号の交差点の中へ突っ込みました。
幸い横から車が来なかったため事故にはならずにすみました。その途端です。お父さんは通り過ぎた交差点の周囲を見回して、「よかったお母さん、警察がいなかった。危うく捕まるところだった」とお母さんに言いました。それに応えてお母さんは「ほんと、見つからなくてよかった。罰金取られたらばかみたいだしね」とお父さんに言いました。
その時です。後部席に座っていたA君が体を前へ乗り出して言いました。「お父さん、お母さん、おまわりさんは見てないかもしれないけど、仏さまはいつも僕たちを見ているんだよ」…。
その言葉を聞いて、ご両親は胸を突かれた思いだったそうです。「子どもを育てる親という存在でありながら、私たちは『見つかるか見つからないか、損をするか得をするか』という狭い心で物事を考えていた。息子は仏さまの広いまなざしの中で、私たちの姿を見つめていました。いや、参りました」と、後日お父様が園に来られてその出来事を報告されました。
日常の生活の中にあっては、私たちはつい、物事を損か得かの物差しではかりがちですが、そのような一人ひとりの姿を、仏さまは慈しみのまことのまなざしで、いつも見守ってくださっていることを忘れてはなりませんね。
3月16日~見つかるか見つからないか… | 2021年03月16日【376】
3月1日~なんてすばらしい国なんだ
新型コロナは大分収まってきましたが、気を緩めずに生活をしましょう。
さて、先日ラジオで和歌山県の山﨑浩敬さんが銀行のコンクールで受賞された作文をお聞きしました。とても素晴らしい内容でしたので主要な部分を紹介させていただきます。
これは「あたたかな小さい手のリレー」という題で、山﨑さんは、人生中途にて視覚に障害を持つことになり、仕事を休み復職のため一年間の訓練を受けて復帰されました。白杖をついてのバスの通勤で不安でいっぱいです。そのバスには和歌山大学附属小学校の児童が乗っていたそうです。
「ある朝、『おはようございます』というかわいい声が聞こえました。「バスが来ました」また声が聞こえました。そして、私の腰のあたりに温かい小さな手があたりました。そして、バスの入り口前まで誘導してくれて、『階段です』と言い、背中を入り口方向に押し出してくれました。座席に座っている子に向かって、『席に座らせてあげて』と言ってくれました。感動です。
私は遠慮しながら、『いいの?』と言うと、『座って』と返事が返ってきました。そして三年が過ぎ、その子も中学生になりました。でも妹が、その手引きを引き継いでくれて、私をバスに乗せてくれています。
バスを降りる時も同じです。バスを降りると歩道を歩く私の腰を小さな温かい手で押してくれて、点字ブロックの上まで誘導してくれます。私は、大きな声で『ありがとう。車に気を付けてね』と言っていつも頭を下げます。
そして、彼女も小学校を卒業しました。でも毎朝、背中を押して誘導する彼女を見ていた周りの子供たちにこの作業は引き継がれています。今では、誰かが背中を押す誘導をしてくれています。
温かい小さな手の小さな親切が、次々と受け継がれています。
あれから十五年以上、私も退職まであと一年と半年、失明をした時は絶望のどん底でしたが、温かい手の小さな親切のリレーで、退職まで何とか頑張れそうです。」
仏教では施しのことを布施と言いますが、財力も物も持たずにだれもができる施しを無財の布施といいます。それが自然に受け継がれていることにに感動を覚えます。山﨑さんは、作文の最後に「なんてすばらしい国なんだ」とおっしゃっています。
「小さな助け合いの物語賞」受賞作品より一部転載
https://www.shinyokumiai.or.jp/overview/about/writing11/000635.html
3月1日~なんてすばらしい国なんだ | 2021年03月06日【375】
2月16日~すべてのもののしあわせを願う
先日十三日の夜、福島県沖を震源とする大きな地震が発生しました。
昨年来よりコロナ禍にあって、「このような時期に自然災害だけは起こらないように…」とことあるごとに願っておりましたが、自然の前にはそのような思いは通用しません。被災された皆様に心よりお見舞い申し上げます。
さて、仏道を歩むもの、仏さまのみ教えをいただくものの生き方。その目的は、すべてのものがしあわせになることです。
いや、仏さまの教えにご縁のない人でも、すべてのもののしあわせを願う人はたくさんおられるでしょう。
しかし、そのことを真剣に思えば思うほどその難しさも感じます。
この度の地震発生を知ってから、東北にお住まいの方は皆大丈夫だろうか、津波は起きていないだろうかと直ぐさま案じました。しかしその次には、私の知人や友人など自分と関係のある人は大丈夫だろうかとその心配の領域は狭まりました。
逆に、その地域に直接縁のある方がいない場合には、その心配のレベルは少し低下してしまいます。
もしもその時、自分の身の回りに別の急ぎの要件があったなら、自分のことで精一杯で人の心配やしあわせどころではありません。
人間の心は、自分の身の回りで何もないと一見穏やかで広く多くの人々のことを願っているようですが、自分の周辺で何かことが起きると自分と他人と直ちに区別をし、他人に対する思いや願いは吹っ飛んでしまいます。
悪い人ではありません。わざとでもありません。思いやりの心がないわけでもないのですが、しかし、いつもどんなときでも、すべてのもののしあわせを平等に願うことは難しい。それが人間の限界だと思います。
本当に、真に仏道を歩むことの難しさを感じます。
しかし、そのような私たちだからこそ、仏道を歩む、仏さまの教えを常に聞くことの意義があります。仏さまの願いこそ、すべてのもののしあわせだからです。
2月16日~すべてのもののしあわせを願う | 2021年02月16日【374】