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10月16日~自らの肌で感じながら…
朝夕、肌寒さを感じる季節となりました。
さて毎日、早朝のわずかな時間に散歩をしていますが、日々それが習慣となると、いろんなことに気づかされます。
星が美しく輝く夜空の日もあれば、雲に覆われた真っ黒な夜空の日もあります。
鮮やかな朝焼けの日もあれば、太陽を拝むことができない日もあります。
さわやかな風に包まれる日もあれば、背中を押すような強い風の日もあります。
一日たりとて同じ空、同じ風、まったく同じ日は絶対にありません。
冬の有名な星座にオリオン座がありますが、左上の星「ベテルギウス」は、昨年の秋から急激に暗くなり明るさが以前の3分の1になったそうで、星としての寿命を迎えており、いつ爆発してもおかしくないそうです。夜空の星も刻一刻変化をしています。
仏教で、すべてのものは生滅変化してうつりかわり、一時たりとも同じ状態に留まらないことを「無常」といいますが、電気もなく、冷暖房もなかった時代の人々は、その生滅変化を肌で感じることができたのだろうと、あらためて思います。
きっと昔の方々は、自然とともに目覚めて、自然とともに寝て、自然とともに生活して、自らのいのちも、無常なる自然の中で生かされていることを、肌で感じながら生活していたのでしょう。
衣・食・住…、明るい照明や冷暖房器具、便利な調理器具やコンピュータなど、快適な機械や器具に囲まれて生活していると、自然の移ろいを肌で感じることをつい忘れてしまいます。
自らも、無常なる自然の中で、いのちを生きていることを忘れたくないものです。
10月16日~自らの肌で感じながら… | 2020年10月16日【366】
10月1日~いつでもどこでも私とともに…
食欲の秋、新米がおいしい季節となりました。
さて、昔から、家族のどなたかを亡くされたご家庭で、よく親御さんが幼い子どもに、「おじいちゃんはね、あのきれいなお星様になったんだよ」とお話になる時があります。いったいあれにはどういう意味があるのでしょうか。
時折、まだ満点の星が輝く早朝に散歩をすることがありますが、夜がゆっくりと明けていくにつれて小さな星、光の弱い星から次第に消えていき、やがては大きな星、燦然と輝く星も消えていきます。
しかし実際は、あの星たちは空から消え去ったわけではなく、私たちの目に見えなくなっただけで、いつでもどこでも変わらずそこに存在しています。
お釈迦様はそのことを月にたとえてこうおっしゃいます。
月が隠れると、人々は月が沈んだといい、月が現れると、人々は月が出たという。けれども月は常に住して出没することがない。仏もそのように存在して変わることがない。
古代のインドの人々も、夜昼かわらず月も星も消えることなく存在していることを知っていて、そのことを永遠に変わることなく存在する仏さまとその教えにたとえています。
お釈迦さまは、ご自身が亡くなるときに、嘆き悲しむ弟子たちに、「私はこの世から亡くなるけれど、悲しむことはない。これからは私の残した仏の真実の教えをたよりとしなさい」と話され、時代がどのように変わろうとも、永遠に変わることのない仏の教えを人生の支えとすることを勧められました。
冒頭の幼い子どもへのお話は、きっとそのことを知っておられたご門徒が、亡くなられた方々は仏さまとなって、お月様やお星様のように夜でも昼でも、どこにいても、常に存在し照らしていてくださることを、お話しくださったのだろうと思います。
大切なことは、私たちが敬うべき存在、たよりとする教えは、いつでもどこでも私たちとともにあるということです。
10月1日~いつでもどこでも私とともに… | 2020年10月01日【365】
9月16日~人生を生き抜いた人として
黄金色に実った稲穂の上を、輝く風が吹き渡ります。
さて先日、NHKラジオで青森県のシブタニさんというお方が、「八十一歳と十八歳」という言葉を紹介しておられました。
どんどん歩いて行くのが十八歳 よろよろと歩いて行くのが八十一歳
大人の階段を上るのは十八歳 家の階段も上れないのが八十一歳
年をとると目に見えて足腰がよわくなっていきます。
心がもろいのが十八歳 骨がもろいのが八十一歳
恋に溺れるのが十八歳 風呂に溺れるのが八十一歳
あぶないあぶない、年をとるともろくなるところも、溺れるところも違います。
まだ何も知らないのが十八歳 もう何も覚えていないのが八十一歳
自分探しをしている十八歳 皆が自分を探している八十一歳
長寿社会になると、年寄りを取り巻くまた新たな問題も出てきています。
どれも人間の一生を端的に表している言葉ですが、自分の今と照らし合わせてみていかがでしょう。クスッと笑ったり、しみじみと考えたり、それぞれの反応があることでしょう。
これらを仏教的に表現するとどうでしょうか。年をとると、それなりに様々な別れを体験し、それなりに老いも病も経験し、いのちを深く見つめる機会もあるものです。
気恥ずかしくてなかなかお念仏が出ないのが十八歳 いつでもどこでも堂々とお念仏が出るのが八十一歳
日々お念仏とともに日暮らしをしたいものです。
いのちの行き先がまだまだわからないのが十八歳 いのちの行き先がお浄土とはっきり言えるのが八十一歳
長い人生を生き抜いた人として、子や孫たちに自分のいのちの行き先をはっきりと言える年寄りでありたいと思います。
9月16日~人生を生き抜いた人として | 2020年09月16日【364】