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7月16日~京都は他力本願の町?
先日の豪雨では、熊本県を始め全国で災害が発生しました。被災された皆さまに心よりお見舞い申し上げます。
さて今月初旬、お仕事で久しぶりに京都の西本願寺に出張しました。もちろんマスクを着用し、衛生面に細心の注意をしながらの出張でした。
京都駅からタクシーに乗りましたが、その中で「京都のタクシーも、このたびの新型コロナウイルスの感染拡大防止で、お仕事大変でしょう」と問いかけた私に、運転手さんから「はい、ホントに京都は他力本願の町やから、この新型コロナのお陰で商売ガタガタですわ」という答えが帰ってきました。
ちょうどタクシーが西本願寺に到着しようとする時でしたので、「西本願寺と言えば、その教えの要は他力本願」、この運転手さんは実にウィットの効いた返答をされたな…座布団一枚、と思ったのですが、それは少し違いました。
運転手さんは他力という言葉を観光客に例えて、京都の町は常々観光客に頼りながら成り立っている町という意味で、京都は他力本願の町と言われたようで、これは間違った使い方です。他力を他人の力に頼って事をなす意味で使うことは、本来的な意味からは間違っています。
他力とは、阿弥陀如来が一切のいのちあるものを平等に救わんとする本願の力のことで、他力本願とは阿弥陀如来の真実の願いのことです。
阿弥陀如来という仏さまは、その昔、法蔵菩薩の地位にある時に、いのちあるすべてのものを等しく救わんと誓われて、五劫というとてつもなく長い時をかけ修行をされて、その願いを成就されました。その願いは本願力という力となって、いつでも、どこでも、誰にでも今の今、はたらいてくださっています。それを他力本願というのです。
タクシーを降りる直前でしたので、運転手さんとはそのようなお話はできませんでしたが、またいつか本当の他力本願の意味を知っていただくご縁があればうれしく思います。
7月16日~京都は他力本願の町? | 2020年07月22日【360】
7月1日~いのちの保険の窓口へ
雨にぬれた木々の緑が一層濃く見えます。
新型コロナウイルス感染防止のため、行事や法要ができなかったしわ寄せが六月末に集中し、先月後半のテレホン法話の更新ができませんでした。いつもお聞きくださっている皆さまへお詫びいたします。
さて、先週の夜、幼稚園で職員会議の最中、豪雨に雷鳴がとどろき、まもなく大音響とともに落雷しました。
頭上より大変な衝撃がありましたのできっと近くへの落雷です。途端に幼稚園の火災報知器が鳴り、電話はつながらず、エアコンもコピー機も壊れて、職員皆てんてこ舞いで対応しました。
そして、私一人だけでなく、職員がいてくれたから本当によかったなと、後からつくづく思うことでした。
翌朝から、火災報知器や電話の会社、印刷機器やエアコンの会社への連絡です。
梅雨時期ですから当然、我が幼稚園だけでなく、いろんなところに落雷はあり、業者さんが多忙を極める中、駆けつけて修理をしてくださいました。
幸い建物全体が保険に入っていましたので、高額の修理代はすべて保険会社から保証され、あらためて保険の有り難さを感じることでしたが、同時に、自分のいのちの保険について考えさせられました。
ここで言う、いのちの保険とは生命保険のことではありません。
皆一人ひとり毎日、老いと病と死をかかえながら生きています。特に病と死には後先順番がありませんし、避けることも代わってもらうこともできません。この度の落雷のように、いついかなる時に、それがやってくるか分からない。それを無常と言います。
その時に、自分のいのち行く末がはっきり保証されていれば安心ですが、保証もなくどこに行くか分からない状態は、迷いと不安でありましょう。
あなたは、いのちの保険に加入されていますか。
いのちの保険はお金では買うことはできませんが、その保険の窓口はお寺にあり、どなたでも無料で加入できます。どうぞお気軽におこしください。
7月1日~いのちの保険の窓口へ | 2020年07月01日【359】
6月1日~本堂の逆さに彫ってある花は…
南の夜空に白く輝く真珠星が見える季節です。乙女座の一等星・スピカと言います。
さて、浄土真宗を開かれた親鸞聖人は、大きなお寺の立派な高僧として過ごされたのではなく、どれほど頑張ってみても、自らの力では完全な悟りを得ることができない私たちが、阿弥陀仏の本願力によって皆、平等に救われていくことをお説きくださいました。
先日読んだ本多昭人先生の『ふたたび出会う世界があるから』(本願寺出版社)という本の中に、本多先生と先生のお寺を訪れたあるご婦人のお話がありました。
そのご婦人は、本堂の美しい花の彫刻が施してある欄間を指して、自分の所属するお寺にも、本多先生のお寺にも、逆さに彫ってある花があることを話されたそうです。
お浄土の美しい様子を表現したお寺の欄間であれば、皆正面を向いて、きれいで立派に咲く花ばかりでいいはずです。ところが確かに、その中に逆さに裏を向けて咲く花があるのです。
その逆さ向きの花は、何事にも完全なものはないということを表しているそうです。しかし、不完全でも、不出来でも、未熟でも、阿弥陀さまのご本願は必ず平等にお救いくださることを、その逆さ向きの花は表しているそうです。
本多先生も初めて知ったと書いておられますが、私もこれまで知りませんでした。
しかし、そのことを知ってから毎朝、本堂でお勤めしますと、欄間の見方や味わい方が変わってきました。
自分自身はいつもあの凜と美しく正面を向いて咲く花だろうか。縁があれば、怒りや腹立ち、妬みや嫉みが心に湧いて、すねて裏ばかりみせている花の方ではなかろうか。そう思ったときに、そのような私を見捨てないと誓われた阿弥陀さまのご本願の有り難さが心に染みてくる気がしました。
どうぞ、今度お寺にお参りになった時に、ぜひ欄間をゆっくり見て下さい。見方、味わい方はあなたの自由です。
6月1日~本堂の逆さに彫ってある花は… | 2020年06月01日【358】