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9月1日~数多のご縁とおかげさまの大地で…
朝夕、虫聞きが楽しみな季節です。
さて、先日、八月十六日にお亡くなりになった伊佐市・西福寺住職の原田靈城先生のお参りに出向きました。
生前、公私ともにお世話になったご住職で享年九十七歳でした。
お参りの後、後継のご住職と思い出話をさせていただきましたが、几帳面な性格でありながら、見た目は飄々として、またユニークな生前のお人柄が思い浮かび、大変懐かしく感じました。
葬儀のパンフレットに、先生が齢七十七歳の時にお書きになった雑感と題した文章が掲載されていました。
原田先生は、冬が青いと書く「そよご」を「とうせい」と呼んで、自分に命名されます。冬青とはやどり木のことで、なぜ命名したかその理由を、「七十歳も半ば過ぎ、越し方を思う時、若さをほこり、人並みにいろんなことをそれなりにしてきたという驕慢と過信の人生を、しみじみ恥ずかしく思います。世の中の組織やしきたりの「やどり木」でしかなかったことを反省する七十年余。
大地に根を張って、雨にも負けず、風にも負けない大木とまではいかなくても、それなりにやってきたという自負心。しかし、この年になって思うことは亭々たる大木の小枝に宿借して、場所と栄養をいただいている冬青と何ら変わることのない生き方をしてきた自分に気づかされて、自分が自分に命名した名前であります」と記されています。
二十五年以上の教員生活で多くの子どもたちを育成し、、また住職の勤め、保護司・公民会長などの社会的なお仕事にひたすら精一杯励んでこられた御方が、ご自身のことを大木の小枝に宿借りをするやどり木に過ぎないとおっしゃいます。
元来努力家で自分に厳しい性分、しかし数多のご縁とおかげさまの大地で生かされてきた先生の静かな境地でありましょう。
九十七年ご生涯、ご苦労様でした。そしてご縁に感謝いたします。
9月1日~数多のご縁とおかげさまの大地で… | 2021年08月31日【387】
8月16日~何一つ完全でない私が…
全国で、コロナ感染、大雨が心配されています。気をつけましょう。
さて、「善人ばかりの家庭では、争いが絶えない」という言葉があります。
おかしなことです。家族全員が善人であれば平和なはずなのに、なぜ争いが絶えないのでしょうか。
この善人という意味は、「私の考えは正しい。私の行いは正しい。私の発言は正しい」と、自分自身を省みることを知らず、我を善しとする人のことをいいます。このことは家庭だけではないようです。
学校や幼稚園の先生方の中には、今の子どもたちの教育が思うように行かないのは、家庭での親の躾や教育がだめだからだとおっしゃる方がおられます。
保護者の中には、子どもの成績が思うように上がらないのは、学校や先生方の指導方法が悪いからだとおっしゃる方もおられます。
子どもの中にも、日ごろ家庭で保護者間の話を耳にしているのでしょうか、この先生は教え方がダメとか、この先生の態度が悪いとかいう子もいると聞きます。
もちろん、学校や幼稚園の先生、保護者もそれぞれに、その職責や務めを全うするよう常に改善や努力を怠ってはなりませんが、あまりにも自分の立場からだけの意見で相手を責め立てると、争いと時間だけが費やされ、皆が疲れてうまくいくものもうまくいかなくなりますし、何よりも子どもたちを取り巻く環境がさらに悪くなります。
あらためて自分自身を省みると、一人の人間としても、福祉・教育に携わる者としても、お寺を与る僧侶としても、親としても、夫としても、自分は完璧、完全だと言えるものは何一つありません。
何一つ完璧にできない、完全でない私が多くの方々の支えによって、 一人の人間として、福祉・教育に携わる者として、お寺を与る僧侶として、親としても、夫として、今日もなんとか過ごさせていただいています。
「善人ばかりの家庭では、争いが絶えない」深く味わいたい言葉です。
8月16日~何一つ完全でない私が… | 2021年08月17日【386】
8月1日~誰一人こぼれることなく
酷暑の日々、照りつける空を見上げて急な白雨などを求めたくなります。
さて、今年もお盆がやってきます。毎年この期間は、初盆をお迎えになるご家族がたくさんお参りになります。
そして、この一年間にお亡くなりになったお一人おひとりを偲びつつ、初盆のお勤めをするのですが、あらためて思い返すとお亡くなりになったのはご高齢のおじいさんやおばあさんだけではありません。
中には幼いお子様もおられます。若い青年もおられます。働き盛りの若いお父さんもおられます。ご両親、あるいは奥様、ご主人、お子様をこの世に残して、先にお浄土に参られた方々がいらしたことを、思い返しながらお勤めをするのです。
そしてあらためて「生死一如」という言葉を深くいただきます。
「しょうじ」とは生きることと死ぬことと書きます。「いちにょ」とは一つの如くと書きますので、「私が生きているという現実と、私が死ぬという現実は常に一体である」という意味です。
私たちは、日常の生活の中で、私が死ぬという現実は、私の人生の道のまだまだ先、いつかは来るだろうがまだまだはるか遠い向こうにあるように思いがちです。
しかし私たちは、誰一人こぼれることなく、一瞬たりとも離れることなく、死と背中合わせの今を生きているということです。
ご高齢でお亡くなりになった皆さまの初盆も、命の尊さや人生の厳しさを教えてくださいますが、お若くして亡くなられた方々の初盆は、なおさらこの生死一如、厳しいいのちの現実を、私たちに問うてくださる大切な期間です。
「人は皆、ひと息ひと息のいのちを今生きている。南無阿弥陀仏のお念仏とともに、怠ることなく今を精一杯勤めよ」。仏となられし方々のお浄土からの呼び声に、静かに耳を傾けるお盆です。
8月1日~誰一人こぼれることなく | 2021年08月01日【385】