こころの電話

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8月1日~清浄なる光によって…

 八月に入り暑さがいっそう増してきました。

 さて、先日ご門徒のお宅にお参りに行ったときに、そこのご主人から質問を受けました。

 「私たちが仏さまに向かってお参りをするのに、お仏壇のお飾りはなぜ、私たち人間の方にすべて向けてあるのですか」

 なるほどその通りです。お花も蝋燭も、また黄金色に輝く美しい部分も、お仏壇のお飾りはすべて私たち人間の方に向けてあります。

 『仏説阿弥陀経』というお経には、ご先祖方が往生された極楽浄土の世界の美しさが説かれていますが、その阿弥陀如来が作りあげてくださったお浄土に生まれた人は、仏さまの清浄の光によって清められると説いてあります。

 清浄とは寸分のけがれもないことで、罪悪や迷い、煩悩がなくなったことを言います。しかもそれは一時的なものでなく永遠にまことの清らかさを得るのです。

 さらに、お浄土において仏さまの光をいただき、まことの清らかさを得た者は、縁あるものや周囲のものを清らかにするはたらきを持つのです。

 お花や蝋燭、また黄金色に輝くお仏壇の美しいお飾りを私たち人間の方に向けてあるのは、まさしくその仏となられた方々が私たちの心を清らかにし、清浄なるお浄土の世界に導こうとするはたらきを形に表した姿に他なりません。

 私たち人間がご先祖方を心配する前に、お浄土の方から煩悩の渦中にある私たちを心配し願っている姿を形に表されているのです。

 その前に座りお念仏をお称えする私たちには、ご恩報謝の心しかありません。

 今年もお盆がやってきます。一般に、お盆にはご先祖が帰ってこられると言われますが、お念仏をいただく私たちにはお盆だけでなく、常に休むことなくご先祖がまこと真実の仏さまとなってはたらいていてくださいます。

 これ以上の功徳と幸せはありません。

8月1日~清浄なる光によって…2016年08月02日【266】

7月16日~真の自己の姿に目覚める

 今年の梅雨はなかなか明けません。大きな被害が出ないことを願うことです。

 さて、先日ラジオで、儒教の開祖である孔子と、その弟子・子貢との会話が紹介されていました。

 ある日、子貢が、「わずか一つの言葉で、一生それを守っていれば確かな人生を送れる言葉があるでしょうか」と孔子に問いました。

 それに対し孔子は、「それは恕という言葉じゃないかな」と、答えたそうです。 恕とは「思いやり」という意味です。

 孔子は、一度きりの人生で大切なことは、周囲のものに対する思いやりであり、自分のことと同じように相手のことも考えることが最も大切なことだと弟子の子貢に教えたのです。

 その話を聞きながら私は、お釈迦さまのこの言葉を思い出しました。

 「どの方向に心で探し求めてみても、自分よりもさらに愛おしいものをどこにも見いだせなかった。そのように、他の人々にとっても、それぞれ自己が愛おしいのである。それ故に、自己を愛する人は、他人を害してはならない」

 仏教では、真の自己の姿に目覚めることを教えます。まことの自己の姿に目覚め、自らのいのちの尊さや存在の重さ、愛おしさが自覚されると同時に、それはそのまま周囲の人のいのちの尊さ、存在の重さ、愛おしさにつながっていくのです。

 自分が、こういうことをされたら不快な思いをする。ならばきっと他の人も不快な思いをするだろから、決して私は他の人に同じことをすることはやめよう。

 自分が、こういうことをされたらとても嬉しかった。ならばきっとと他の人も嬉しいだろうから、進んで私は他の人にも同じことをしてあげよう。

 自己を見つめ、自己に目覚める人は、そのまま他の人への目覚めへとつながっていくのです。

孔子もお釈迦さまも、周囲から敬われ慕われる方々は、きっとそれを日々実践されていたのでありましょう。

7月16日~真の自己の姿に目覚める2016年07月16日【265】

7月1日~まだ足りないまだ足りない!

 「今年はよく雨が降りましたね」。これが最近のあいさつ言葉です。

 さて、先日読んだ本の中に餓鬼のことが書いてありました。餓鬼とは仏教で説かれる迷いの世界にいる存在です。

 地獄よりも少し上にあって、生前に貪りの心にとらわれ施すことを知らなかった者が堕ちる世界と言われます。

 この餓鬼には三つのタイプがあるそうです。

 一つ目は「無財餓鬼」といって、字の通りまったく財産を持たない餓鬼です。

 着る服もなく食べ物も持ちません。ひもじくて道に落ちている馬糞まで食べようとするのですが、口に持っていくとたちまち炎となって燃えてしまい食べることができず、飢えの苦しみを負わなくてはなりません。

 二つ目は「少財餓鬼」といって、文字通り少しの財産を持った餓鬼です。とは言っても、糞尿や残飯などしか食べることができません。

 最後は「多財餓鬼」で、これは多くの財産をもった餓鬼で、今風に言えばセレブな餓鬼です。

 豪華な家に住み、別荘まで持って、運転手付きの車で思うがままに送り迎え、ご飯も日本料理、中華、フランス、イタリア、何でもござれです。

 またこの多財餓鬼は、餓鬼の世界だけでなくいろんな世界に行くこともできるそうで、もしかしたら私たちの人間の世界にもいるかもしれません。

 こんなセレブな餓鬼が何の苦しみを負うのかが問題です。それは、足ることを知ることのない苦しみです。

 いくら豪華な生活をしても、どれほどおいしいものを食べてもまだ足りないまだ足りないと満足できず、ついには人の物までも手を出してしまいます。

 自分でもっているもの、与えられたもので満足できないとき、人は餓鬼になってしまうのです。

 先日、退職された東京都のお偉いさんにも聞いていただきたいお話です。いえいえそういう私も聞かせていただきます。

7月1日~まだ足りないまだ足りない!2016年07月02日【264】

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