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11月1日~あの人とまた会いたいなぁ…
冷たい小雨が時折降る季節です。
さて、ご法事でご門徒のお宅によく出向きますが、ご法事が終わるとお斎、つまり会食の時間となります。
お斎とは、お勤めをした僧侶やお参りに来てくださった方々を感謝の思いでもてなすお膳のことで、お参りされた方々で思い出話をして、故人を偲ぶ目的もあります。
時間が許す限り、私もその席につくようにしていますが、そのお斎の様子は様々です。
お参りに来られた全員で、亡き方の懐かしい思い出話をしたり、アルバムを広げて皆で泣いたり笑ったりのあたたかな家庭もあります。
逆に、故人の話など何一つ出ることもなく、世間話で終始する家庭もあります。
また、ご法話が縁となって仏教やお寺の歴史、親鸞聖人やお念仏の教えに話が発展することもあります。
常々そのような風景を見ながら、もし私自身が死んだなら、ご法事の席で、私の家族や知人たちはどのような話をするだろうか、亡くなった私に対してどのような評価をするだろうかと、思いました。
私の思い出話など何一つ出ることもなく世間話で終わるなら、これはとてもさみしい思いがします。私の欠点や不評、悪口を言うくらいなら、まだ世間話の方がましです。
人にはそれぞれ、性格やクセ、表情や行動など特徴があり私自身、できるならそのよい部分を人に見てもらい、印象に残して、覚えていてほしいものです。
ところがあらためて自分の姿をふり返ると、そのよいところがあまり見当たりませんし、よき方向へ向くような努力も普段からしていません。そして、そのことを一番感じているのは、同じ屋根の下に住まう家族でありましょう。
やがてお別れをしたとき、「あの人ともう一度会いたいなあ」と言われる存在になることができたなら何と素敵なことでしょう。
またそのためには、日々私は何をすべきでしょうか。互いに一度は考えておきたい事柄です。
11月1日~あの人とまた会いたいなぁ… | 2016年10月28日【272】
10月16日~言葉が必要な世界には…
菊の花開く季節です。今年も私たちの目を楽しませてくれることでしょう。
さて、アメリカではいよいよ大統領選が終盤を迎えます。
民主党のクリントン候補と共和党のトランプ候補の激しい戦いが続いていますが、先般開催されたテレビ討論会では、トランプ氏は、クリントン氏の夫ビル・クリントン元大統領の過去のセクハラ問題や、クリントン氏自身の私用メールアドレス問題を取り上げ批判。
一方、クリントン氏は、トランプ氏の女性蔑視のわいせつ発言や、中南米系やイスラム教徒、障がい者への差別発言を取り上げての批判と、アメリカの未来に向けての政策を語る場が、「史上最も醜い討論会」と言われるようにお互いの批判合戦に終始しました。
アメリカほどではありませんが、日本においても先の都知事選において、過去に大病を患った候補者に対し「病み上がり」と称したり、「大年増の厚化粧」などと候補者を誹謗中傷する光景がありました。
一挙手一投足が票に影響する選挙戦ですので、ついこのような過激な発言が出てしまうのでしょうが、本人の資質とは関係のない外見を誹謗したり、あまりにも政策とかけ離れた対戦相手の批判はいただけません。
また現在、選挙権も十八歳からですので、次代を担う若い方々には聞いてほしくはない内容です。
言葉は時によっては、身体での暴力よりも相手の心を傷つける武器になります。また、それらの言葉をメディアを通して聞いている人々の心も、知らず知らずのうちに荒んでいくことでしょう。
多くの民族がそれぞれの思いを持ちながら、生きていかねばならない私たち人間の世界には、その思いを伝えるために必ず言葉が必要です。
ならば相手に対し思いやりのある優しい言葉を語るように心がけましょう。
そして、どのような立場にあろうとも、いつ何時誰から聞かれても、恥ずかしくない言葉を使いたいものです。
10月16日~言葉が必要な世界には… | 2016年10月16日【271】
10月1日~独りよがりの親切に
お彼岸は既に終わりましたが、道ばたでは彼岸花が鮮やかな赤を放っています。
さて先日、大阪に出張し電車に乗っていたときのことです。
途中の駅で、高齢の女性が乗って来て座っている私の目の前に立たれました。
普段より、「お年寄りに若輩が座席を譲るのは当然のこと」と思っている私は、すぐさま座席より立って、「どうぞ、おかけください」と座席を譲りました。
するとその女性は、「いえ、大丈夫です。次で降りますので…」と言い、立ったまま座ろうとはされませんでした。
「そうか、次の駅で降りられるのか」と思った私も、そのまま立って電車に乗っていましたが、なんとその女性は次の駅ではなく、四つ先の駅で降りていかれ、席を譲りそれを素直に受けてもらえなかった私の心には、少々不快なものが残りました。
お年寄りに席を譲るのは当然のこと、当たり前のことと言いながら、心のどこかでは、その行為が自らの善意であるという意識がはたらいているのでしょう。恥ずかしいことです。
他人に親切のつもりでしたことが必ずしも素直に受け入れられたり、感謝されたりするとは限りません。
それは受け取る側の問題があるからです。人は一人ひとり、性格も違えば育った環境も異なります。
社会的な立場も違えば、その日その日の心や体の状態も違います。また、目の前に現れた人によっても対応が異なるかもしれません。
ですから、自分が相手に対して当然のこと、当たり前のこと、親切なこと思ってしたことが、独善の行為の押しつけになってしまうことも多くあり、時には相手を傷つけてしまうことさえあります。
相手を思う心を常に持つことは大切なことですが、相手の心を無視した独りよがりの思いやりや親切にならぬよう、心がけたいものです。
10月1日~独りよがりの親切に | 2016年09月28日【270】