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8月1日~喜びの法要となるように…

 毎日、うだるような暑さが続いています。

 さて八月にはお盆の法要が勤まり、今年、初盆をお迎えになる家庭にあっては、特に丁寧にお勤めされることでありましょう。

 このお盆の行事は、『仏説盂蘭盆経』というお経に記された故事に基づくものです。

 お釈迦様のお弟子の目連尊者が、今は亡きお母さんの行く末を、修行で体得した先の世を見通す力で探したところ、お母さんは餓鬼の世界で飢えて苦しんでおられました。

 目連尊者はお母さんを救おうとするのですが、自分の力ではどうすることもできません。

 困り果てた目連尊者は、祇園精舎のお釈迦さまに救いを求め、お釈迦さまは母を救う手立てとして、お坊さん方が夏の修行を終える七月十五日に施しをすることを諭され、その功徳によってお母さんは、餓鬼の世界から救われたというものです。

 この故事によって、お盆は、亡くなられた方をご供養する行事だと教えるお寺もあるのですが、浄土真宗ではその受け止め方が異なります。

 浄土真宗においても、お盆には今は亡き方を偲び感謝の思いでお参りをするのですが、一方ではこのお盆の法要ことを喜びをもってお勤めする「歓喜会」と呼んでいます。

 その喜びとは、お念仏をいただくものは、阿弥陀如来の願いによってわけへだてなく救われるお約束をいただいているのですから、それを喜び感謝する法要であること。

また、目連尊者の施しによってお母さんが救われた日は、修行僧方が修行を成就した喜びの日であることから、喜びの法要とするのです。

 とは言えども、初盆に、今生でお別れした方を偲ぶことは淋しいことでもあります。仏前で静かにお念仏を申し、生前のご縁に感謝し、今に残る私自身も阿弥陀さまにともに救われていく身であることを喜ぶ法要となることを願います。

8月1日~喜びの法要となるように…2019年08月02日【339】

7月16日~水俣で学んだ三つのこと

 湿気の多い季節、片手に団扇が必要になってきました。  

 さて、先月二十八日、熊本地方裁判所で言い渡されたハンセン病家族訴訟判決について、政府は控訴をしないことを明らかにしました。

 多くの差別を受け、計り知れない苦難を強いられたご本人や家族のご苦労を思うとき、この判断が早く実効的な対策に向かうことを願います。

 このニュースを聞いて思い出したのが、既にお亡くなりになりましたが、二〇〇二年に水俣市でお会いした水俣病の語り部の杉本栄子さんからお聞きしたお話です。

 杉本さんは水俣の漁師の娘として生まれ育ち、村全体が家族ぐるみでお付き合いをし、大変おだやかな漁村だったそうです。

 杉本さんが中学生になったある日、お母さんの体が突然震えはじめ病院に運ばれますが、そこは既に神経を冒された人々が狂騒する地獄の光景だったそうです。

 当初、風土病と思われた水俣病は、多くの差別と偏見を生み、村には造言飛語が広がり、杉本さんは筆舌し難い差別の過酷な日々を送ります。

 「今になってやっと話せる」という体験談は、聞く人自らの心を問う言葉となって重く深く迫ってきたことを記憶しています。

 杉本さんは、水俣病の厳しい体験を通して学んだことは三つだとおっしゃいました。

 一つは、「物事を知らんことはいかん」こと。やむを得ないことですが、漁師に生まれ育った杉本さんは海と魚のことしか知りませんでした。社会のことは前向きに学ばねばいけないということです。

 二つには「知ったかぶりをすることはいかん」こと。三つには「嘘を言うことはいかん」こと。知ったかぶりのいい加減で曖昧な知識をひけらかしたり、町中に広がった造言や嘘は、当時病で苦しむ人だけでなく、水俣の町中を混乱に陥れ、多くの人々を苦しめ辛い思いをさせたそうです。

 この三つは、日々私たちの生活の有り様を問うものでもあります。

7月16日~水俣で学んだ三つのこと2019年07月16日【338】

7月1日~ハンドルとブレーキ

 日々、慌ただしく過ごしていましたら、六月十六日のテレホン法話の変更をすっかり失念していました。申し訳ありません。

 さて昨今、高齢者の運転による痛ましい事故が立て続けに起こりました。

 道路を一直線に走り、ブレーキをかけることもなく人をはねて建物に突っ込む様子がテレビで報道されましたが、死傷された方々へのお見舞いの思いとともに、大変心が痛みました。

 誰も、あのような事故を起こすと思って運転する高齢者はいないでしょう。

 いざという時にとっさの運転操作ができなくなるのか、あるいは意識を失ったりするのか、いずれにせよ、高齢になると自分では意識しないうちに、瞬間的に間違わずにブレーキをかけ、ハンドル操作できなくなる状態になるのでありましょう。

 自動車同様、人間の心にもハンドルとブレーキが必要で、宗教はそのはたらきをするものでありましょう。自動車と同じように、私たちの人生もそれぞれ前に進まねばなりません。止まっているだけならエンジンもタイヤも、動くためのエネルギーも必要ありません。

 正しい目的地に迷うことなく、ルールを守って、安全にたどり着くためにハンドルがあり、ブレーキがあり、それを適切に操作するドライバーが必要なのです。

 私たちの人生はどうでしょうか。誤った方向へハンドルを切っている人はいないでしょうか。ブレーキをかけて止まる必要があるのに、一直線にアクセルを踏み込んでいる人はいないでしょうか。

 他人事でなく、自分のこととして、その生き方を教えに聞いていく、問い尋ねていくことが、宗教では大切なことであります。

 そして、その対象には年齢は関係ありません。幼い子どもや血気盛んな若者、そしてお年寄りまで、すべての人が講習者となるべきものです。

7月1日~ハンドルとブレーキ2019年07月01日【337】

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