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12月16日~仏縁を結んでいただくために…
師走の青空に浮かぶ、蝶のような形をしたちぎれ雲を蝶々雲と言います。この雲が出ると天気が崩れる可能性が高いのだそうです。
さて、今月の十六日、覺照寺では第三番目の納骨堂の施設を建立する起工式を執り行いました。名称は「第三偲恩堂」と言います。
「お寺に安心してお参りのできるお墓がほしい」という門徒方の要望に応えてのものですが、お寺では、お墓をお寺の敷地内に作ることが本来の目的ではありません。
今生でお別れした人が残すものが三つあると言います。
一つは思い出です。楽しかったこと、嬉しかったこと、悲しかったこと、辛かったことなど、いっしょに暮らした様々な思い出を残して人はお別れをします。
二つ目は遺骨です。人が亡くなると火葬されて、必ずそこにはお骨が残ります。通常は遺族によってお墓か納骨堂に安置されて、後に残る人々のいのちの縁となり、お彼岸やお盆にお参りして、故人を偲び感謝の心を育んでくださるものです。
三つ目は仏縁・仏さまのご縁です。仏教を開かれたお釈迦さまも涅槃に入る直前、今生でのお別れを案ずるお弟子方に、「仏さまの教えを拠り所として生きて行きなさい」と諭されました。
親鸞聖人も、「自分が目を閉じたならば、遺体は加茂川の魚に与えなさい」と言われ、我が亡き後はお骨を頼りとするのではなく、お念仏の教えを拠り所とすべきことを伝えられました。
お寺に納骨堂を建立する目的は、まさしくこの仏さまとのご縁を、お念仏のご縁を、後に残る方々へ結んでいただくためなのです。
今年も覺照寺心の電話を聞いて下さって有り難うございました。
来年も、一人でも多くの人へお念仏の心をお届けするために励みます。
皆さま健康に留意され、健やかで、和やかな新年をお迎え下さい。
新年は、元旦の朝にお話しが変わります。
12月16日~仏縁を結んでいただくために… | 2019年12月16日【348】
12月1日~あなたの歳は、いまいくつ?
師走の穏やかな晴天を「師走日和」といいますが、願わくはそのような日が続いてほしいと思います。
さて先日、お寺にお参りに来られたおばあちゃんが私に向かって、「最近本当に日が経つのが早くなりました。ご院家さんもそうですか」と聞かれました。
最近、私もそう思うようになりましたので、「ホントですね。日が経つのが早いですよね」と応えました。
年をとればとるほど、月日が経つのが早く感じるというのは、まんざら嘘でもないようで、フランスのジャネーという哲学者は、例えば、五歳の子どもにとって、一年の長さは人生の五分の一ほどに感じますが、五十歳の人には一年の長さは人生の五十分の一に感じると唱えています。したがって、五十歳の人の十年間は、五歳の子どもの一年間に当たることになります。
これは、人間は若ければ若いほど、すべてのことに未経験で、見るもの聞くもの触るもの、すべてに新たな経験と感動があります。よって時間がゆっくりと流れていきます。
逆に高齢になればなるほどすべてが経験済みで、新たな経験をすることもなく、感動することもなく、生活にもそれほど変化はなく、よってあっという間に時が過ぎていくということです。
あなたの歳は、今おいくつでしょうか。令和元年も早十二月、時が経つのが早く感じられませんか。そうしている間に、皆ジャーネーとお別れをしていかねばなりません。
問題なのは、その私のお別れがいつくるのか、どこでなのか。そして順番もなければ、代わることもできないということです。
一日一日を大切に生きるには、どうしたらよいでしょうか。
限りある命を、尊く生きるには、どうしたらよいのでしょうか。
そして、私のいのちはどこに向かって生きているのでしょうか。
年末のひと月を過ごす中で、それらのことを考えながら過ごすことも大切ことではないでしょうか。
12月1日~あなたの歳は、いまいくつ? | 2019年12月01日【347】
11月16日~「おもてなしの」心とは…
十一月も半ば、鹿児島もいよいよ寒冷を覚える時期です。
さて先日、鹿児島の伊佐市のお寺に永代経法要の布教で出向きました。
私のつたない法話を熱心にお聴聞くださるたくさんの門徒方に支えられて、お仕事を勤めさせていただき、誠に有り難いことでした。
また、布教が終わった後は、そのお寺のご住職が私を、伊佐市の観光へ案内くださいました。晩秋の風情漂う曽木の滝では、「ご講師さん、ちょっとそこへ立って」と、至る所で自前のカメラで私を撮ってくださいました。
夕食の時は、予約くださっていたいたお店でご馳走してくださり、近隣のお寺のご住職も招かれて、楽しく有意義なひとときを過ごさせていただきました。
私が帰る車の中には、いつの間にか、伊佐市名産の新米やお菓子が乗せてあり、ご門徒皆でお見送りいただきました。
お仕事で参りながら、逆に大変なおもてなしを受けたわけですが、頂いた品物以上に、そのお寺のご住職をはじめご門徒の方々の人をもてなす気持ちが伝わってきて、大変有り難く思いました。
「おもてなし」とは、人をもてなすという動詞の丁寧語からきた言葉ですが、「ものを持って成し遂げる」という人に対する接遇のことをいいます。
この場合の「もの」とは目に見える物質的なものと、目には見えないはたらきとの二つがあります。
また、漢字で表と裏、「表裏無し」と書いて「おもてなし」、つまり表裏のない心で人と接するという意味もあるそうです。
仏教でいえば、「布施の心」と言えるでしょう。「布施」とは、自らの計らいを捨てて、ただひとえに相手のこと思ってさせていただく施しのことです。
「おもてなし」でも、仏教でいう「布施」でも、共通するのは、「表裏のない心」「自らのはからいのない心」で、相手のために精いっぱいさせていただくことが大切なことです。
伊佐市のお寺のご住職のお姿に、そのことを学ばせていただきました。
11月16日~「おもてなしの」心とは… | 2019年11月29日【346】