こころの電話

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2005年9月1日

朝夕、少しずつ涼しくなってきましたが、日中は残暑が厳しい毎日です。

さて先日、加治木町のFさんのお宅にお参りに行きました。覚照寺のご門徒は大隅町だけではありません。大隅町出身で他の地域にお住まいの方々もたくさんおられ、ご要望に応じてお参りに出向きます。

Fさんのお宅は、ご主人様の七回忌にあたり、久しぶりに子どもさんやご兄弟、お孫さんたちが集まって、和やかな雰囲気の中で法事を勤めました。

お勤めを終え、食事をいただき、帰るときになって、朝から小降りだった雨が一段と強さを増してきました。そこで、傘を持たずに駐車場から来た私を、Fさんの一番下のお嬢さんが傘をさして送ってくださいました。

駐車場でお礼とあいさつをして、車でその場を去ったのですが、約200メートルくらい走り、曲がり角に来たときに車内のミラーで後ろを確認したのですが、そのミラーには、私を見送るお嬢さんの姿がありました。雨の中傘をさして、私の乗った車が見えなくなるまで見送ってくださっていたのです。

会社にお勤めですので社員研修でマナーを学ばれたのかもしれません。もしくはご両親のご指導か、またはお嬢さん自身がこれまでの人生の中で学ばれたことかわかりませんが、いずれにせよ、お見送りをいただいた私は、とても有り難い気持ちになりました。そして、お父様の命日のご縁で、岩川から加治木までお参りに来て本当によかったと、その時あらためて感じました。

仏教に、「無財の七施」というお布施があります。無財とは財産がない、七施とは七つの施しと書き、お金がなくても、品物がなくても、誰にでもできる七つの施しということです。その中の一つに、この身の施しと書いて「身施」という布施があり、これは体を使った施しということです。

ちょっとした心遣い、心をその姿で表すことによって、相手をとても幸せな、心地よい心境に導くことができる施しです。

Fさんのお嬢さんに大切なことを学んだお参りになりました。また、次の機会ににお参りに行くのが楽しみです。

2005年9月1日2005年09月01日【10】

2005年8月15日

15日は終戦記念日、6日は広島、9日は長崎原爆の日でもありました。60回目の節目の日、非戦・平和の思いを新たにすることです。

さて、今年も初盆を迎えたご門徒宅へお参りに行きましたが、Sさんのお宅で、小学生のお孫さんから、「おじいちゃんは亡くなってどこに行ったの。おじいちゃんのいる所はどんなところ」と質問を受けました。

そこで、私はこのように答えました。

おじいちゃんの往った世界は、「極楽浄土」というところですよ。ここは、皆がお互いのことを思い合って、仲よく幸せに過ごす世界です。それに対して、皆が自分のことばかり考えて、争いばかりしている世界が「地獄」という世界だよ。

例えば、「地獄湯」と「極楽湯」という温泉がありました。両方とも同じ広さで満員状態。地獄湯では、「お前の肘が当たった」「石けんの泡が飛んできた」「お湯がかかった」とケンカばかり。ところが、極楽湯のほうは、だれもケンカをしていません。なぜでしょうか。

それは、極楽湯では、皆がお互いに他人の背中を洗うからケンカにならないのです。AさんはBさんの背中を流し、BさんはCさんの背中を流し、皆が互いに背中を流し合い、結局自分の背中を流しているのです。

地獄湯では、満員の狭い中で、タオルを持った両手をいっぱいに広げて、自分で自分の背中を洗おうとするからケンカになるんです。自分のことばかり考えているから衝突が起きるのです。

「おじいちゃんは、極楽湯のような、皆がとても仲のいい、幸せな世界にいらっしゃるんだよ」と、私は話しましたが、きっと生前、おじいちゃんに大変かわいがってもらったのでしょう。お孫さんは、それを安心したような顔で聞いてくれました。

しかし、私はお話をしながら、今、私たちが住むこの世界は、地獄湯のようだなと思いました。皆が他人のこと、周囲のことを考えずに、自分のことばかり考えています。自分のことは棚に上げて人を責め立てたり、争いが大変多い世の中です。

先の世のことではありません。自分の住んでいる世界が極楽湯になるように、極楽湯のような世界を子や孫に譲れるように、一人ひとりが努めたいものです。

2005年8月15日2005年08月15日【11】

2005年8月1日

昨年から取りかかっておりました本堂大修復も、皆さまのおかげにより、見違えるほど立派な本堂が完成しました。今年の初盆法要は、きっと沢山の方々がお参りなさることでしょう。

さて、お盆は、正式には盂蘭盆(ウラボン)といい、悩み苦しみ多き人間が、仏さまのみ教えによって救われることを意味します。

今から約2,500年前のこと、お釈迦様のお弟子の目連さまが、修行で体得した先の世を見通す力で、今は亡きお母さんの姿を探しました。お母さんは仏さまの世界ではなく、あろう事か苦しみの世界・餓鬼の世界に墜ちていました。

餓鬼の世界とは飢えと乾きの世界で、生前の欲深い貪りの罪で墜ちる世界です。飢えに苦しむ我が母を見て、目連さまは水や食べ物を持って行きますが、すべて口元で火となり、母親を助けることが出来ません。

目連さまはお釈迦様のもとへ走り助けを求めました。するとお釈迦様は、「目連よ、そなたの母は我が子一番、我が子大事と、そなたを一生懸命育てるがあまりに、周りにたくさんの罪を犯して餓鬼の世界に墜ちたのだ。我が子を育てるのに多くの罪を作らざるを得ないのが、母親の逃れ得ぬ性である。目連よ、今そなたがあるのは、苦しみの世界に墜ちてまでも、我が子を育てようとした母のおかげではないか、その恩を忘れてはなぬ」。そして、我欲にかられた人生を送るのではなく、周りの人へ施しをする尊き人生を送るよう諭されました。つまりお盆には、「我欲の心を戒め、施しの心を大切にしなさい」という仏さまの教えがこめられているのです。

目連さまは、そのお釈迦様の教えをいただいて、お母さんも仏さまの世界に救われていったと言われます。

「お盆には、ご先祖が帰ってくる」といわれますが、ご先祖は霊魂のようなものではありません。光り輝く仏さまとなって帰ってこられることを心してください。しかも手ぶらではありません。後に残されたものの人生が尊いものとなるように、すばらしい仏さまのみ教えとともに帰ってきてくださるのです。

その仏さまとなられたご先祖に感謝し、仏さまのみ教えをお聞きするのがお盆の大切な意義なのです。

2005年8月1日2005年08月01日【12】

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