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4月16日~平和を守る難しさ
年度初め、日々仕事に追われながら過ごしているうちに、テレホン法話の変更を失念してしまいました。申し訳ありません。
さて、二月二十四日に、ロシアが隣国ウクライナに侵攻を開始して、二ヵ月が経過しようとしています。
この間、テレビでは毎日ウクライナの状況が報道されますが、日々伝えられる痛ましい惨状に、胸が詰まるような思いであります。
お釈迦さまは、「己が身にひきくらべて 殺してはならぬ 殺させてはならぬ」とおっしゃいましたが、ウクライナの現状を自分自身の問題として考えるとき、平和を守ることについても、その難しさを感ぜずにはおれません。
お釈迦さまは、「世間はわれと戦うけれども、われは決して世間と争わない。仏さまの教えを語る者は、世間のいかなる人とも争うことがない」と話されたと伝えられます。
しかし、自分の周囲が平和な状況だとそう言えるかもしれませんが、この度のウクライナのように、他国から一方的に攻められたときに、我が身を守るため抵抗することなくそう言えるのか。
この度は多くの一般市民が犠牲になったと伝えられますが、自分の周囲に幼い子供やお年寄りがいたならば、武器を持つことなくそう言えるのか。
戦争の経験もなく、過酷な戦場もまったく知らない私は、いざという時、どのような態度を取るのか想像もつきません。
この度のウクライナの惨状を目にするたびに、戦争が始まったとき、武器を持つことなく、平和を唱えることは大変難しいことを感じます。
しかし、お釈迦さまは、仏教徒は平和が基本であると教えられました。たとえ、どのようなことがあろうとも仏教徒は武器を持つことを否定し、戦争に協力しないことを教えられました。
ウクライナの方々へ、支援の募金しかできないことを申し訳なく、もどかしい思いですが、平和の問題を己がこととして、考えたいと思います。
4月16日~平和を守る難しさ | 2022年04月23日【402】
4月1日~人間とはどのような生き物か
新年度新たなスタートというのに、ウクライナの様子が報道されるたびに心が痛みます。
昔々、インドのある国に起きた出来事です。
あるとき、その国に毒を含んだ大雨が降りました。その雨にうたれると、七日の間、気がおかしくなってしまうのです。
前もってそのことを知っていたその国の王様は、急いで家来たちに知らせようとしましたが、間に合わず家来たちはその雨にうたれ、また飲んでしまいました。 そして家来たちは気がおかしくなり、皆裸になって踊り出し、王様のいる宮殿に押しかけました。
宮殿にいた王様を見て、家来たちは叫びました。「大変だ、王様は気がおかしくなられた。服を着ておられるぞ」。正気ではない家来たちから見ると、服を着ている王様の方がおかしく見えるわけです。
賢明な王様は機転を利かして、「そうか、私は気がおかしくなったらしい。急いで薬を飲もう」と言って、薬を飲むまねをして、そして服をぬぎ、家来たちとともに踊り、家来たちは自分たちと同じ姿の王様を見て安心しました。
七日後、ようやく毒水の効果も無くなり、家来たちは正気にもどりました。そして自分の裸の姿に驚いて慌てて服を着ました。再び王様の姿を見て家来たちは騒ぎ出しました。「大変だ。王様が裸でおられるぞ。気がおかしくなられた」。
王様は家来たちに言いました。「私は大丈夫だ。今までおまえたちに合わせていただけだ。みんなが正気に戻ったようだから、私もそろそろ服を着よう」。
その国は再び、もとどおりの平和な国になりました。
このお話は、多数の人が正しい、賛成だと言っても、それが間違っている場合もあることを教えています。
逆に、多数の人が間違っていると思っていても、権力の座にいる一人の人間の偏った思いで、皆が悲しみ苦しむことにもなります。
人間とはどのような生き物か、常に聞かせていただく教えが大事なようです。
4月1日~人間とはどのような生き物か | 2022年04月02日【401】
3月16日~いのちというものを問い直す
日に日に春色も整ってきました。
さて、先般発行した「覺照寺だより」の中に、鹿児島県曽於家畜保健衛生所の家畜追悼法要の記事を掲載しましたが、その記事を見た京都の同僚の僧侶より、藤井敏夫さんという東本願寺のご門徒が紹介された同朋新聞が送られてきました。その新聞より一部を紹介します。
藤井さんは、小さい頃から酪農に興味があり、北海道の酪農関係の大学を卒業してから石川県の県営牧場に勤務されました。
その牧場では、やむを得ないことととして、病気になったり、足を折ってしまった牛は、生かしておいても商品価値のない牛として、牛の動脈に薬品を入れて殺していたそうです。身ごもった牛でさえもそのような時は、親子共々殺していたそうです。
藤井さんは、「その時の私は、牛を経済動物としてしか見ていなかった。殺すことに疑問すら抱かなかった」とおっしゃいます。
ある日その牧場の牛に口蹄疫の疑いがかかります。さっそく藤井さんは、お仕事としてその牧場の牛全頭を殺す、いわゆる殺処分の準備を夜通しかけて行います。
そのような中、東京の動物検疫所から牧場の牛は口蹄疫ではなかったという知らせが入り、その報告のために牛舎に行き従業員に伝えると、二人の若い従業員は抱き合って泣いたそうです。
その姿を見た時、藤井さんは、「ああ、今まで自分は牛を同じいのちあるものとして考えずに殺していた。牛も同じいのちを生きているということが見えていなかった」ことを思い知らされたそうです。
そして、自分はこのままではいけないと、いのちというものを問い直さないといけないと思い、六十一歳で牧場のお仕事を辞めて、京都の仏教の専門校で学ばれ、今も様々な場面でいのちの尊さをお話しされると共に、仏道に生きるとはどういうことなのかを問い求めて活動されています。
まことに有り難い体験談を読ませていただきました。
3月16日~いのちというものを問い直す | 2022年03月17日【400】