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7月16日~少しでも考える機会を…
長い夏と書いて「長夏」、夏の盛りの日の長い頃をさす言葉です。
さて、今月八日、安倍晋三元首相が、奈良市内で選挙演説中に狙撃されお亡くなりになるという、まことに痛ましい事件が発生しました。
容疑者は、「母親が宗教団体に入会し、多額のお金を振り込んだため破産し、家庭生活がめちゃくちゃになった。絶対成敗しないといけないと思った」と供述した伝えられます。
事件の真相やその宗教団体の実態については、今後の捜査結果を待たねばなりませんが、それ以外に、世の中にはカルトと言われる宗教がたくさんあります。
以前、当時朝日新聞学芸部「こころ」編集長を務めておられた菅原信郞さんは、カルトの見分け方について三つあるとおっしゃいます。
一つは入退会の自由があるかどうかです。自分がこの宗教を信仰したい、学びたいと思った時に自由に入会できて、逆に、自分がどうもこの教えは受け入れられないと思った時に、その組織から自由に退会できるかということです。
二つ目にはお金です。「寄附をこれだけしなさい」「お布施をたくさんしなければ救われませんよ」というような教えは心配です。まして「たくさんお布施しなければ、あなたは地獄に堕ちますよ。先祖が祟って今の生活が大変なことになりますよ」というようなことがあれば、それは既に宗教団体ではなくて恐喝団体です。
三番目に、その組織の中に、言論の自由があるかどうかということです。そこで説かれる教えや教祖について、自由に議論ができるかどうか。
自分の心のより所となる宗教ですから、本当に自分自身で納得できなければなりません。時には教えに疑問が生じるかもしれません。いくら教祖様であっても同じ人間ですから、心底から敬える人でなければなりません。それらが自由に議論できて、しかも公開されているかどうかということです。
安倍元首相のような悲しい事件は二度とあってはいけませんが、それと合わせて、きっかけとなった宗教ということについて、少しでも考える機会をもってもいいかもしれません。
7月16日~少しでも考える機会を… | 2022年07月17日【408】
7月1日~如来さまの救急車
大変短い梅雨が明けて、毎日暑い日が続いています。
昨日六月三十日の東京都内の救急車の出動件数は三一五〇件で、一日の出動件数としては過去二番目に多いそうで、熱中症による搬送者が急増したのが主な要因だそうです。
あの救急車のサイレンを耳にすると、搬送されていかれる方の無事を案ぜずにはおれません。
皆さんは、あの救急車の「救急」という言葉は、如来さまのお慈悲の心からとったものであることをご存じでしょうか。元来仏教では、「きゅうきゅう」ではなく「くきゅう」と読むのですが、善導大師という中国のお坊さんが、「救急の大悲」と言われ、何が縁となって、どっちに向かうかわからない危なっかしい私を心配して、いつでも、どこでも、常にはたらいていてくださる阿弥陀さまのお慈悲の心を示されています。
ただ、救急車と、救急の大悲と違うところは、救急車は電話をかけて呼ばないと私の所へは来てくれませんが、如来さまが私を救おうとする救急の大悲は、私が呼びもしていないのに、サイレンを鳴らしながら私のもとへ来てくださっているということです。
貪りや怒りや迷いの心に日々病んでいるのに、それに気づかない私の病気を先に見ぬいて、そのサイレンが耳に届いていながら、なかなか聞こうとしない私を、この今も心配してはたらいておられるのです。有り難いことです。
今度、浄土真宗のお寺に行かれたならばご本尊をよくご覧ください。浄土真宗のお寺の本尊・阿弥陀如来は必ずお立っておられ、さらに、そのお姿を横から見ると必ず前のめりになっておられます。
煩悩を抱えた私たちを見ていると、うかうか座ってなどいられない。如来さまの方から真っ先に、私を救うために駆けつけてきてくださっている。まさしく、このお姿こそ、如来さまの大悲のお心を表しているのです。
7月1日~如来さまの救急車 | 2022年07月01日【407】
6月16日~お通夜とお葬儀はどう違う?
いよいよ梅雨に入りました。雨は必要ですが降りすぎも困ります。
さて先日、友人が「今日、職場の同僚のお父さんが亡くなったのだけど、今日の通夜に行こうか、明日の葬儀に行こうか、どっちにお参りしようかな」と話していました。
どうやら、友人にとってはお通夜もお葬儀も、亡くなった人を弔う同じような式と思っているようです。
しかしお通夜とお葬儀は本来その意味が異なります。お通夜は一言で言えば語らいの場であり、亡くなった方を、まだ生きておられる方として、家族をはじめ故人と親しき方々が最後の夜を通して、感謝の思いの中でお話をさせていただく場です。楽しかったこと、嬉しかったこと、悲しかったこと、辛かったことなど一つ一つ、故人の遺徳を偲びつつお話をさせていただく。ですからお通夜は元来夜伽(よとぎ)と言いました。
お葬儀は、一般的には、亡くなった方との今生でのお別れの式です。 親しい方との別れは本当に悲しく辛いものです。特に急なお別れは言葉には表すことはできません。しかし、その親しい方の死を前にして、たった一日二日の間に、私たちは今生での別れを告げなければならない現実に迫られます。お葬儀は、一般的には、今生での別れという、きびしい心のけじめをつけねばならない式と言えます。
しかし、浄土真宗の信仰に基づく葬儀はその一般的な意味合いだけには終わりません。お葬儀の会場の中心には必ず阿弥陀如来がいらっしゃいます。故人が往生された阿弥陀さまのお浄土は再び倶に会える世界と説かれています。さらに、亡くなった方は、阿弥陀さまのお力によって光り輝く仏さまとなって、すぐさま縁ある人々のもとへ還って来てくださると説かれています。浄土真宗のお葬儀は、故人への感謝とともに、その教えを受け止めていく場でもあるのです。
今はほぼ一〇〇パーセント、葬儀会館で行われるようになった通夜と葬儀ですが、その意味合いだけは心にとどめて、お参りをさせていただきたいと思います。
6月16日~お通夜とお葬儀はどう違う? | 2022年06月16日【406】