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11月1日~自然に刃向かうよりも…
先月は一週間おきに台風が到来し、それによる被害が心配されました。
また、稲刈り前の農家の方、秋の祭りを予定された方なども同様であったことでしょう。
私も最初の台風到来は幼稚園の運動会、その次の到来にはバス遠足が予定されていたので、実施できるかどうか大変心配しました。
台風が自分と関係のない地域や人々のところに向かってもあまり気にしませんが、自分の地域や行事の定まった日に向かってくるととても気になりますし、いよいよとなれば自分の所をそれて他の方向へ向かうことを願ったりします。たとえかわいい子どもたちのためとは言え、人間は身勝手な生き物です。
当たり前のことですが、台風や地震などの自然現象は、人間の力ではどうしようもありません。
もし台風が来るなら、庭の物が飛ばないように、家が痛まぬように前もって備えるしかありません。
地震には、いつおきてもよいように、家具が倒れぬよう火事が起きぬよう、また逃げ場も常に考えておかねばなりません。
自然に刃向かうよりも、人間が自然に寄り添うしか、その猛威から避ける手立てはありません。
人間の体も同様のことが言えるかもしれません。
年を取るにつれて目が悪くなり、体は硬くなり、体が思うように動かなくなってきます。年とともにあちらこちらが痛み、自分の思うように行かなくなるのも、これまた自然なことです。
病院に行ったり薬を飲んで、その自然なことを少し防いだり、遅らせたりすることもできるでしょうが、やはり自然にそれは進みます。
台風や地震に人間が寄り添うしかできないように、その自然の中で、人間がどのように生きるのかが問われるところです。
11月1日~自然に刃向かうよりも… | 2017年10月31日【296】
10月16日~仏さまのいのちを生きる
ひと雨ごとに、冷たさが増す季節です。
さて、幼稚園には家庭訪問がありますが、私は毎年、園児の家庭に出向く先生方に、「もし、訪問した家庭にお仏壇があったなら、まず仏さまにご挨拶のお参りをしてから、保護者と話を始めてください」と事前に話してから送り出しています。
なぜなら、そのお宅の主はお仏壇の仏さまだからです。主に最初に挨拶をするのは当然のことです。
しかし今年、家庭訪問を終えた先生方に、お仏壇のあったご家庭を聞いたなら答えは0でした。
昨今、核家族は当然ですし、幼稚園児の保護者はまだお若いので、わが家にお仏壇を求めるご縁がないのでしょう。やむなしとは思いながらも、0という数字をとても残念に思いました。
お仏壇はご先祖を偲ぶ所ではありますが、それ以前に、中心に仏さまを安置するところです。ですからお仏壇といいご先祖壇とはいいません。
その仏さまは、休むことなく私たち一人ひとりを救わんと願い続けていてくださる存在です。また仏さまは、私たちは衣食住すべてに亘り、目には見えないいのちのつながりの中で生かされていることに気づくよう、呼びかけてくださっている存在でもあります。
家庭でご飯が炊けたときには、まず最初に仏さまにお仏飯をお供えします。そして、食事を頂くときには必ず仏さまに感謝のお参りをしてから頂くよう、私たちは親から教えられました。
また、人様から頂き物をしたときには、まず仏さまにお供えしお参りしてから包みを開くよう教えられました。
これは、私たち一人ひとりは、多くの尊いいのちのつながりの中で生かされている、いわば仏さまの尊いいのちを生きていることを学ばせていただく行為です。
どうかお子さまが幼いときから、家族一緒にお仏壇にお参りする生活をと、切に思うことであります。
10月16日~仏さまのいのちを生きる | 2017年10月15日【295】
10月1日~子どもたちの素晴らしさを
季節は秋冷、朝夕の風に冷たさを感じるこの頃です。
さて、幼稚園で日々子どもたちと接していると、子どもたちの素晴らしさを感じることがよくあります。
その一つは、お友だちの長所を素直に認め、褒め讃えることです。
例えば、「今日誰々ちゃんは、先生にほめられたんだよ。すごいね」とか、「誰々ちゃんはかけっこがいつも一番ですごいんだよ」とか、「誰々ちゃんはお絵かきがとても上手なんだよ」など、友だちの長所や、よい出来事を素直に認め、また周囲に対してそれを紹介し、褒め讃えることができる素晴らしさです。
なぜ素晴らしいかといえば、大人にはそれが難しいからです。特に同年代であったり、同じ生業をしてる人の場合はさらに難しいようです。
身近な人に何かよいことが起こると、口では社交辞令でお祝いを申しますが素直に心から喜ぶことができなかったりします。友人が自分よりもよい評価をされたり、自分を追い越していったならば焦りやいら立ちが湧いてきて、心から喜ぶことができなかったり、逆にけなすことさえあります。
それは大人の心には常々、自分は他人と比較して優れているという妄想や、自分を真剣に顧みることをせず、自らの不完全さを知らない驕り高ぶりがあるからです。それ故、周囲の人に何かよいことがあると、それを素直に認めたり褒めたりすることができないのです。
『阿弥陀経』というお経には、阿弥陀仏の本願念仏こそが、一切の人々が等しく救われる真実の教えであることを、東西南北上下のガンジス川の砂ほど多くの仏さまたちが証明し、勧めてくださっていることが説かれています。
仏さまとは、私たちいのちあるものを救わんと、休むことなくはたらきかけてくださっている存在で、言わば阿弥陀仏と同朋の仏さま方が、阿弥陀仏の本願念仏の素晴らしさを褒め讃え勧めておられるのです。
そこには人間の妄想や驕り高ぶりは微塵もありません。ですから私たちはただただ、それを信じて念仏申すばかりです。
10月1日~子どもたちの素晴らしさを | 2017年10月01日【294】