こころの電話

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2月1日~「有り難う」があふれるように…。

 一月が一気に過ぎていきました。

 さて先日、朝のラジオで興味深い話を聞きました。

 それは、「有り難う」という言葉が、会社をよい方向へと変えているというお話です。

 その会社は自動車会社ですが、以前は、組織的なリコール隠しが発覚し、大きな社会問題となったこともありますが、現在は徹底した品質管理を行うドイツ流の経営を導入し、改革を進めているそうです。

 日本の企業が外国のスタッフを迎えて経営するのですから、当初お互いの国の文化や価値観の違いによって、現場が混乱することもあったそうですが、逆に国と国の違いを超えてとても大切な気付きがあったというのです。

 それは、三年前にドイツから来た社長が、会社で常々、「有り難う」という言葉を口にするということです。

 厳しい経営問題ですから、社内の会議が激論になることもあるのですが、ドイツ人の社長は、その後に必ず「有り難う」という言葉をかけるのです。

 意見の違いがあっても、たとえ激しい意見の対立になったとしても、話し合いが終われば、同じ会社の仲間同士、「有り難う」という言葉をお互いに掛け合うそうで、その社長の姿勢が自然に社内に広がり、社員もお互いに「有り難う」と声を掛け合うようになって、会社全体の雰囲気が変わってきたそうです。

 その会社では、以前はそういう雰囲気が全くなく、一生懸命仕事をしてもお互いにそれを認め合うことをしない。仕事をする喜びが分からない。結果、それが大きな会社レベルでのミスにつながっていったということでした。

 「有り難う」とは「有ることが難しい」、つまり「当たり前ではない」ということです。今日仕事ができるのも、一緒に会話ができるのも、食事がいただけるのも決して当たり前でなく、目の前にいる人の、また多くの人々のお陰であるという、おかげさま、感謝の表現です。

 家庭で、学校で、仕事場で、「有り難う」があふれるよう、心がけたいものです。

2月1日~「有り難う」があふれるように…。2012年01月28日【161】

1月16日~子どもの姿、見えない…。

 京都のご本山では、親鸞聖人七五〇回大遠忌法要が、いよいよ一月十六日、本命日の最後のご法要をお迎えします。

 さて、お寺では新年に役員会を開催し、役員の皆さんにいくつかのお願いをしましたが、その中で、ご法事やお寺にお参りになるとき、子や孫たちを誘って一緒にお参りしてほしいとお願いしました。

 それはここ十数年、特にご門徒宅のご法事で、次第に子どもたちの姿が見えなくなりつつあるからです。

 少子化だけが原因ではないようです。クラブや塾が優先されている。またご法事の大切さを強く諭して下さるおじいさんやおばあさんが一緒に住んでおられない等、理由は様々ですが、子どもたちは数年に一度というご法事の場に座る機会が減って、仏縁が子どもたちからとても速いスピードで薄れていくことを心配するからです。

 昔からよく「子は親の鏡」とか、「子は親の背中を見て育つ」という言葉を耳にしますが、これは教育や子育ての場だけのものではないようです。

 ご門徒のMさんは、車で約一時間半ほど離れた町に嫁がれて数十年になりますが、三ヶ月に一度、必ず車で走ってお参りに来られます。

 東京にお住まいのKさんは、毎年、親の命日に、「今年も帰省できませんが、ふるさとのお寺でお勤めをお願いします。私は築地本願寺にお参りします」と、現金書留でお布施を送ってこられます。名古屋にお住まいのご門徒Tさんも同様です。

 思い返しますと、この方々のご両親やご家族は生前より、よくお寺のご法座にお参りに来られ、仏事を大切にされていた方々ばかりです。どうも幼い頃、若い頃から、自然に見てきた親の姿が、そのまま無意識のうちに子に受け継がれているようで、子は親の背中を見て育つ世界がここにあります。

 大事なことを子や孫たちに伝えるのは、親としての務めであり、責任であります。共々に心がけたいものです。

1月16日~子どもの姿、見えない…。2012年01月12日【160】

1月1日~明日ありと思う心に…。

 二〇一二年・平成二十四年の年明けです。今年も「覚照寺・心の電話」をよろしくお願い致します。

 例年でありますならば、「明けましておめでとう」と新年をお迎えするのですが、昨年の東日本大震災の被災者並びに被災地を思いますときに、到底そのような気持ちにはなることができない年明けであります。

 ただ、そう言っても一年のスタートです。新たなる気持ちと共に、遠くからでも復興のために少しでもできることに務めなければなりません。

 昨年の大震災では、私たちは多くのことを知らされ、忘れかけていた大切なことを思い起こされました。

 「明日ありと思う心のあだ桜 夜半に嵐の吹かぬものかは」

 親鸞聖人が御年九歳にて詠まれたと伝わるこの和歌もそうです。「この美しく咲き乱れる桜が明日もあると思うな。今夜、嵐が来て散ってしまうかもしれませんよ。あなたのいのちも同様に…」と無常観を詠われたものですが、私自身、日常の中でいつしか人ごとのように、また情緒的に紹介していたような気がします。

 しかし、大震災では、無常とは決して人ごとでなく、情緒的なものでもなく、私自身の厳しいいのちの現実であることを知らされました。

 いのちには五つの原則があります。

 私のいのちは、決して代わることはできません。

 私のいのちは、一つにて分け合うこともできません。

 私のいのちは、日々二度と繰り返すことはできません。

 私のいのちは、その終焉を避けることができません。

 私のいのちは、期間を予測することができません。

 この厳しい現実を真から受け止めるとき、今日一日の大切さが見えてきます。 今日一日なすべきことが見えてきます。

 今年も、一日一日を大切に、お念仏と共に暮らして参りましょう。

1月1日~明日ありと思う心に…。2011年12月31日【159】

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