10月16日~私の罪をとがめることなく
幼稚園・子ども園の運動会の準備に追われていましたら、つい、このテレホン法話を忘れていました。申し訳ありません。
さて、宗教にかかわる言葉で、「汝の罪は深い」とか、「汝の罪を許す」という言葉を聞くことがありますが、このことについて、深川倫雄先生が述べられています。
西本願寺のパンフレットに掲載されていた一部をご紹介します。
「『無量寿経』の前半は「弥陀分」というて、お釈迦さまが、阿弥陀さまとはこういう仏さまなんだとお説きになっているけれども、その中には一カ所も我々の生き方が告げていない。また一言も私どもの罪が深いとは説いていない。有り難いね、これは。罪深い者に『汝の罪は深い』と告げるひまはないんだ。
川端を通りかかったら、子どもが土手で遊んでいたらしゅうて、一人で溺れておる。そこへ通りかかって『こんなとこで相撲とるから溺れるんじゃないか』と、罪を告げるひまはないではないか。溺れておるなら、何であろうとまず先に救うてやらねばならん。
それがお救いなんだから『我何をなすべきか』ではなくて、『仏何をなしたもうか』を聴聞するんですよ」とおっしゃっています(『如来をきく』彰順会篇・深究社)。
阿弥陀さまは、おまえは罪が深いとか、おまえのここが悪いから直せとか、おっしゃる仏さまではありません。
阿弥陀さまは、私たち一人ひとりの苦悩を知りぬいて、一時も休むことなく案じ通し心配し通しの仏さまであり、悩み苦しみ多き私たちのために、今立ちあがっていかねば間に合わぬという親心を現した姿が、あのお立ちになった姿の阿弥陀如来であり、私たちの罪をとがめることなどなく、私たちそのままを救い取ってくださる仏さまであります。
まことにありがたい仏さまであります。
2022年10月18日【414】